ニッケイ新聞 2010年1月1日付け
ブラジル日本移民100周年を大いに祝った2008年は十二支の最初、子年でコロニア新世紀のスタートを切った。しかし、昨年の丑年は、経済危機が世界を襲い、牛歩のごとき一年。それだけに寅年の今年は、仕事に恋愛に果敢にガオー! と吠えて攻めていきたい。新年号巻頭ページは、「ジャバクアラの白い虎」「寅を呼ぼうとした男」「ブラジル猛虎会」のトラ3連発。年末には、「トラ・トラ・トラ!」と快哉を叫べるような一年にしたいところ。
「お兄ちゃん、今どこにいるのよ! え? ブラジル?」
慌てる妹さくら。「みんなによろしくな」と電話を切り、モレーナと腕を組み、リベルダーデを颯爽と歩いてゆくフーテンの寅さん―。
国民的映画「男はつらいよ」(監督・山田洋次、主演・渥美清)のブラジルロケを実現させようとした男がいた。当時リベルダーデ商工会の会長(三代目)だった尾西貞夫さん(66、兵庫)である。
「コロニアの人気も凄かったし、リベルダーデの活性化にもなると思って。何より、水本毅さんの遺志を何とか継いであげたくてね」
水本氏は同商工会の初代会長。1961年に「ブラジル松竹」を設立、シネ・ニッポン(現愛知県人会館)で20年間、松竹配給の新作672本を上映した。
80年11月には、上映館をシネ・ジョイアに移し、名前もシネ松竹に改める。開舘を記念した招待映画会では、「男はつらいよ」の第16作を選んだ。
「寅さんをブラジルに呼びたい」と言い続け、89年に亡くなった水本氏は、「撮影に使ってもらおうと寅さんが使う皮のトランクも作っていた」とか。
その思いを果たすべく、尾西さんは94年、松竹大船撮影所(神奈川県鎌倉市)近くの喫茶店で山田監督と初対面。
「几帳面な人という印象だった」。リベルダーデや日系人の事情を説明、ブラジルロケを打診した。
帰伯後、次なる一手を考えた。その計画とは署名活動。文協や県連を通し、瞬く間に全伯6千人の署名が集まった。
映画のストーリーを考え、脚本を作ってくる人もいたという。―ガルボンブエノを闊歩、リベルダーデ広場での歯切れのいい啖呵売―。そんな寅さんの姿をコロニアは夢見た。
スポンサーを探し、交渉までしていた尾西さんは、山田監督と2回目の面会にこぎつけ、署名を手渡した。しかし既にこの頃、渥美さんの体調は悪く、松竹の関係者から「ちょっと無理ですよ」と言われていた。
山田監督もしきりに、「無理は言えないんだ」と語っていたという。
渥美さんは96年に亡くなった。しかし、尾西さんは諦めなかった。2000年、国際交流基金で山田監督の来伯が決まったことから、文協での講演会を企画した。
山田監督は壇上で、「ブラジルに寅さんを連れてきたかった」としみじみと話したという。
「実現してれば、面白いものができていたと思うけどね」。寅を呼ぼうとした男、尾西さんはそう当時を振り返って笑った。
写真=サンパウロ市ジャバクアラ区にあるサンパウロ動物園の白虎、バブー。2005年生まれの4歳オス。06年にフランス人の飼い主から、動物園に寄贈された。バブーというのは、ヒンディー語で「旦那」、ネパール語で「子供」という意味を持つとか。あいにくの曇り空、悠々と歩く姿は見せてくれなかったが、その両方を兼ね備えたような、泰然かつ無邪気な表情でカメラを見つめた。