ニッケイ新聞 2010年1月6日付け
サンパウロ州保安局長や連邦議員などを歴任したエラスモ・ジアス氏が4日夜、ガンのため亡くなった。
5日付各紙サイトによると、大腸と肝臓ガンのため、2日からサンパウロ市A・C・カマルゴ病院に入院していた同氏は85歳。5日にサンパウロ市議会で通夜の後、サントスのパケター墓地に葬られる予定だ。
最後の数カ月間で約20キロ痩せたという同氏は、軍人また政治家として知られ、1979年3月に保安局長退職後、連邦、サンパウロ州、サンパウロ市で議員歴任。政界は2004年に引退したが、同氏の名を一般市民に知らしめたのは、軍政時代の鉄腕大佐としての業績による。
1924年6月、パラグアス・パウリスタ生まれの同氏は、サンパウロ総合大学で歴史を学んだ後、グアナバラ大学法学部でも学んだ。その後35年間、軍役についた。
軍政時代には、ARENAと称する政党の創設や、共産主義者摘発のための最初の組織立ち上げなどの功績もあるが、それ以上に記憶に残ったのは、1974年3月からのサンパウロ州保安局長時代、カトリック大学(PUC)学生や職員らを、武力で制圧した事件だろう。
1977年9月22日のPUC制圧は、大学周辺を固めた軍が、ジアス氏自らの指揮で構内に乗り込んだもの。一時的にせよ拘束された学生らは3千人超ともいう。
全国学生連盟の再建阻止のためのPUC構内侵攻では実弾も使用。負傷者も多数出る強引なもので、700人もの学生らを一時拘留、最終的に32人が治安維持法違反で投獄されるに至った。
政治犯扱いされた市民らには、軍政に媚する鉄腕大佐そのものだった同氏は、幾多の証拠にも拘らず、暴行はしていないと言い続け、時の政権に従った軍人にも恩赦を受ける権利はある筈と訴え続けたが、最終的には、恩赦も賠償金支払いもかなわなかった事になる。
PUC侵攻の年に同校受験の娘は合格したが、翌年の入学手続き時に同氏の娘と判明して入学拒否となり、マッケンジー大学への志望先変更を余儀なくされたという。
ジアス氏が保安局長を務めた時代は、1969~74年のエミリオ・メジシ政権下を中心に、アノ・デ・シュンボ(鉛の年代)と呼ばれている。