ニッケイ新聞 2010年1月22日付け
造園技師としての猪又さんの業績はよく知られている。
猪又さんが来亜したのは1966年、28歳の時だった。以来、アルゼンチン国内に数々の日本庭園を設計・施工した。とくに高い評価を受けた79年に建設したパレルモの日本庭園は、「築山泉水式、回遊式庭園」だ。築山と池、庭園内の石は1個500キロから10トンにも及び、その多くは約1000キロ離れたコールドバ州やブ州オラバリーアから搬出され、その重量は2000トンほどに達するもので、日本文化を具体的に紹介するものになった。
さらに、造園技師としての力量を不動にしたのは、高速道路パナメリカーナと環状線道路ヘネラル・パス拡張工事に伴う樹齢50年から60年もの巨木(1本20から40トン)の移植を見事成功させたことだった。
当時の農・林業関係者の間では「樹齢30年以上の木は移植したら枯れる」が常識。しかも高速道路周辺住民が環境保全、樹木移植反対運動を起すなかで、猪又造園技師は「移植樹木が10パーセント枯れたら、責任とってハラキリする」と啖呵を切って宣言、大手新聞や週刊誌で大変な話題となった。
日本の伝統的移植技術である「樽巻き」を応用した。これは秋口に木の周りを切り込み、冬に入って本格的に掘り起こす。土塊が崩れないように麻のロープで樽を巻くようにぐるぐる巻きにする。その運搬もまた、大きなクレーンと運搬車を扱う大掛かりな土木作業で、猪又技師は現場で指揮を取った。アルゼンチン人のぺオンを動かすのに、下手なスペイン語で土方を扱う親方のように大声張り上げ、殴ったことさえあった。わずかなミスで怪我したり命を失うこともあり、真剣な作業だった。
結局、98%の成功率(のち施工業者の管理不足で4%弱が枯れたため、正式には95%)で活着し、伝統的移植方法と猪又造園技師の名前は「樹木の救世主」として一躍有名になった。
そのほか、ブ州にあるセンテージャ牧場に日本庭園、つづいてテレサ・サバリーナ大牧場に純日本庭園を築造し、これではアルゼンチン園芸協会から高い評価を受けた。さらに昨年、米国人俳優のブ市近郊にある自宅に、日本庭園の設計をするなど活動はつづいている。