ニッケイ新聞 2010年2月10日付け
いわゆるニッポン語問題は、今始ったものではなく、以前からもコロニアの大きな問題として、つねに関心をもたれてきたものであるが、戦前の外国語教育が、わりに自由であった時代には、ニッポン語教育によって二世のブラジル化をできるだけくいとめようとする、むきだしの、いや、むしろ、国家主義的な背景をもつ民族意識から、ニッポン語教育が問題とされていたのだった。
この気もちは今日でも、コロニアのかなりなパーセンテージをしめる一部の間には、いまだに、残ってくすぶっているようであるが、その他のものは、この国家主義的民族意識をささえていた母国ニッポンの軍国的な勢力がくずれおちたことによってもたらされた、あらゆる情勢の激変をすなおに認め、戦前のようなニッポン語教育の目的があやまっていたことを反省するようになった。
それとともに、戦前あれほど力を入れたニッポン語教育が、今日成長した二世にとって、よみかきの役にほとんどたっていないことが分ってきた。このむなしい結果は、ニッポン語教育の目的または理念が、あやまっていたということとは、かかわりのないものであるが、とにかく、この不成功な結果は、一世をおどろかせるより、ある一部のものには、ニッポン語教育は、手のつけようがないと、これをなげだすような気もちにさえさせている。また、二世にとっては、かれらのニッポン語への関心をうすくさせることになったのも事実である。
そして、かなりの程度までニッポン語を習得した二世でも、その多くがポルトガル語をギセイにしたニッポン語偏重の教育のためで、ブラジル人として社会的に活動する上に大きな欠点をもつものになったということが一世と二世とを共に反省させ始めているのである。
このような事情から、ニッポン語教育に対する確信がくずれ、いったいどうしたらいいのかと迷っているところに、今日の問題があるのである。
さる6月30日(1956年)サンパウロ女学院で行われた「エスペランサ」主催のニッポン語教育に関する討論の集りでも、今日のコロニアに、新しい意味でのニッポン教育の目的、または理念がはっきりにぎられておらず、したがつて、ブラジルという国のわがコロニアにおける二世という特殊な条件のもとにあるものに対して、どんな教え方をやるべきかということが、まるで考えられていないように思われた。
だから、ブラジルにおけるニッポン語教育が、ニッポンにおける国語教育のようにとりあつかわれたりするのであるが、コロニアにおけるニッポン語教育、とうぜん、外国語としてのニッポン語の教授でなくてはならない。
二世がブラジル人であることを否定する一世は今日では、ほとんどいないし、そればかりでなく、かれらが立派なブラジル人となることを、ほとんどのものが希望するようにさえなってきている。
それゆえ、一世でさえも二世の母国はブラジルだと認めているものは多いのだが、それにもかかわらずブラジルを母国とする二世の母国語は、とうぜんポルトガル語だという考えが、はっきりつかまれていない。これは、一世の民族意識が、二世が異なった民族となることをきらい恐れている本能的な気もちから、わかりきったことが論理的にコンランをきたし、感情的にきめてしまうことによるからであろう。(つづく)