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ブラジルの風が運んだサヨナラ本塁打=高校球児=奥田ペドロ=(中)

ニッケイ新聞 2010年2月16日付け

 「夢はプロ野球選手だった。本当は日本でもアメリカでもどっちでも良かった」。甲子園を現実的な目標とするブラジル球児が多い中、当初から奥田ペドロのプロ志向は高かった。きっかけは、伊藤ディエゴとともに門を叩いたイビウナ市にある「セントロ・トレイナメント・デ・ヤクルト」。通称、アカデミーである。
 マリリア市でやはり野球選手として活躍した二世の父の影響で6歳から投手としての英才教育を受け、世代別のブラジル代表としても活躍したディエゴに導かれて野球を始めたペドロだったが、野球の神様が与えた才能は、本物だった。
 「センスはあった。小さいときから上手かったね」。アカデミー当時を知るブラジル野球連盟副会長の沢里オリヴィオは言う。
 14歳でアカデミー入りしたディエゴより2年早い12歳でブラジル球界の「虎の穴」入りしたペドロがテレビの画面越しながら、憧れたのがメジャーリーグで活躍する日本人選手だった。「イチロー、そしてカズオ(松井稼頭央)に憧れていた」(ペドロ)。
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 ホームラン打者を志向する大味なブラジル人が多い中、抜群のリズム感を持つ日系三世は当初から、守備力と打撃力を兼ね備えていた選手を目指していた。
 そんなマリリア市生まれの球児が日本に向かうきっかけとなったのは、日系の同胞だった。やはりアカデミーのOBで、2005年に春のセンバツ大会で大会ベスト4入りした羽黒(山形)のエース、日系三世の片山マウリシオである。ディエゴは当時の思いをこう振り返る。「マウリシオの試合のビデオを見て、僕らも日本で甲子園に出たいと思った」。
 「どうすれば日本で成功できるの」「コウシエンって一体、どんなところ」――。2004年冬に一時帰国したマウリシオは、古巣の後輩を激励にアカデミーを訪れ、ペドロやディエゴと言葉を交わしているが現在、東北福祉大野球部に所属するマウリシオも、初対面だった二人からの日本についての質問をよく覚えている。そしてこんなメッセージを送ったのだ。「言葉も通じないし、練習もキツイ。とにかく頑張るしかない」。
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 2007年3月に本庄一に留学した二人に待っていたのは異文化への適応だけでなく、高いレベルの野球の壁だった。
 ペドロは苦笑いする。「ブラジルで知ってた野球とは全てが違っていた」。
 1994年の野球部創設当時、ボールを追うグラウンドさえなかった本庄一は、新興勢力でいわゆる野球の名門でもなく、甲子園出場経験もなかったが、それでも日伯との質の差は明らかだった。
 前年に実際にアカデミーに足を運び、ブラジル球児のレベルは認識していた監督、須長三郎は、甲子園初出場を目指す戦力としてでなく「日系の方の教育熱、野球への情熱に魅かれた」と、留学生の獲得を決断している。故に、重視したのは「野球の技術より、性格で考えないと日本の高校で3年間過ごすのは無理」。1973年に川越工で夏の選手権四強入りし、早稲田大学では岡田彰布(元阪神)の一学年上としてリーグ優勝やベストナインを経験した須長は、2002年に本庄一の監督に就任した。
 二人の日系三世にとって幸運だったのは、埼玉県屈指の名将、須長が過去に日系人の指導歴を持っていたことだ。
 「例えるならディエゴはカメで、ペドロはウサギ」(須長)。
 異なる気質を持つ日系三世の「コウシエン」への駆けっこが始まった。(敬称略、社友・スポーツライター、下薗昌記)

写真=ペドロの幼馴染で、野球の道に導いた伊藤ディエゴ=埼玉県本庄市の本庄一高校で、下薗写す