ニッケイ新聞 2010年4月8日付け
戦後移民が始まって間もない1956年、文協に「就職相談部」が設置された(59年に援護協会に移管)。就職斡旋が主なものだったが、今でいう〃心のケア〃も重要な仕事だった。ブラジルや配耕地に適合できず、ノイローゼになってしまう移民も少なくなかった。脱耕、国援法での帰国―。絶望の果てに自らの命を絶った人もいただろう▼親に連れられ、子供の頃に来たからといって順応したとは限らない。アイデンティティに疑問を抱き、コンプレックスを抱えてしまう例も多かったろう。ブラジルで生まれ、小学校を戦前日本で過ごした老婦人。言葉の違いを種にいじめられた。「ポ語は話せないけどブラジルがいい。日本には2度と行きたくない」という言葉が記憶に残っている▼今月4日付けの茨城新聞が、2月に県内牛久市の入管センターで命を絶った25歳の日系人男性について報じた。5歳で訪日。両親の別居、いじめ、そしてお決まりの非行―。道交法違反容疑、覚せい剤取り締まり法違反などで刑務所に。服役中のヴィザ更新は認められない。強制送還されれば、家族のいる日本には2度と戻れない。訴えを起こしながらも、昨年11月に移管された同センターで首を吊った▼家族の写真に書かれた「幸せになって」のメッセージが残った。「もし私が帰れと言われたら…ポ語も分からないし、どう生活したらよいか」と妹。ブラジルに兄弟の知人はいない。犯した罪を悔い、壁のなかで彼は何を思ったのだろう。少なくとも〃祖国〃に帰る選択はなかった。考えるほどに、やるせない話だ。(剛)