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55年目のコチア青年=レジストロ、イグアッペを訪ねて=《1》=1次1回の木村多平さん=レジストロに根を張り55年

ニッケイ新聞 2010年5月5日付け

 みんな元気でやっとるなー――。1955年の1次1回着伯から今年で55周年を迎えるコチア青年。9月19日の55周年、コチア青年花嫁移住51周年記念式典を前に、コチア青年連絡協議会(新留静会長)はブラジル各地で頑張る青年たちを訪ね、式典参加を呼びかける旅行を実施した。50周年を祝った05年以来となる親睦の旅。今回はサンパウロ州レジストロ、イグアッペを訪れ、仲間の元気な姿を喜び合い、青年の絆を新たにした。笑顔にあふれた旅行に同行した。

 バスは4月17日早朝にリベルダーデ広場を出発。途中立ち寄ったピニェイロスのSBC病院、バルゼン・グランデ・パウリスタで各地の参加者を乗せ、南へ向かう。
 今回の参加者は、サンパウロ市・近郊、スドエステの青年や夫人、賛助会員たちなど44人。現在も農業に従事している人もあれば、他の仕事を営む人、アポゼンタードの人と色々だ。ブラジル生まれの二世もいる。
 バスは途中、ジュキチーバで一休み。レジストロへ向かう国道BR116号が開通したのは約55年前。瀬尾正弘さん(1次5回、徳島)が売店の地図を指し、不便だった時代について教えてくれる。かつてはサントスから船で行かなければならなかったレジストロは、今では3~4時間ほどの道のり。サンパウロ市とレジストロの間に位置するタピライは、かつてコチア産組による茶栽培が盛んだった場所だ。
 車中、コロニア・ピニャールの山下治さん(2次1回、福井)が持参した柿が供される。ウィスキーも手伝って、車内はますますにぎやかに。「先は長くないんだから、生きてるうちに参加しないとね」との声。昔を振り返り「○○さんに種を借りに行くんだけど、いつも怒った顔で『持っていけ』って。でも貸してくれなかったことはなかったね。人情家よね」と、話は数十年前にさかのぼる。
 再び国道を下り、バスは最初の目的地レジストロへ到着。市内のシュラスカリアの前で、同地在住のコチア青年の木村多平さん(1次1回、新潟県)、金子国栄レジストロ文協会長の出迎えを受けた。
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 コチア産組専務理事の故下元健吉氏が提唱、実現したコチア青年移住。1955年9月15日、その第一陣となる1次1回の109人が移民船あめりか丸からサントスの地に降り立った。
 レジストロにはその内の17人が配耕された。茶とバナナで有名な同地。青年たちも茶、バナナ栽培農家へ入った。今も同地に暮らす木村多平さんもその一人だ。
 当時は「家内工業の茶工場が40軒くらいあった」と話す木村さんは、仲間の青年とともに、当時地元では最大規模だったという坂野幸太郎氏のバナナ農園に配耕された。「ガイジン」に混ざって、農園からリベイラ川の積み出し港までバナナを担いだ。「月給では床屋にも行けなくてね。(青年同士)互いに髪を切ったものですよ」と笑う。
 普通で1房30キロ。60キロくらいになるものもあったという。「ガイジンは2つ3つ一度に運ぶけど、自分は一つだけ。でも、彼らが休んでいる間に休まず運んでね。運んだ数では僕の方が多かったですよ」と振り返る。当時は国道116号にかかる橋もなく、バルサで運んでいたそうだ。
 「バナナは人数が必要。一人ではどうにもならない」。2年で他の茶工場へ移った木村さんは、その後市内の商店で働いた後に独立。車の部品販売などを手がけてきた。
 同地には現在、18人の青年がいるという。最初に入った土地で今も暮らす木村さん。「ものぐさだからですかね。馬鹿のひとつ覚えですよ」と柔和な笑顔を浮かべた。(つづく、松田正生記者)

写真=コチア青年1次1回の木村多平さん