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コラム 樹海

ニッケイ新聞 2010年5月15日付け

 あれはもう20年近くも昔のことながら―東京・日本橋の丸善の入り口にぼけーっとして急ぎ足で歩く人たちを眺めていると「オイッー」と背の方から肩を叩くので振り返ると本永群起さんがにこにこしている。「なんでこんなとこでつっ立ってるんだ」と言うものだから「友だちとハヤシライスをと思って」と答えると「へぇー。美味いのか」と尋ねる▼そこで―日本で最初にハヤシライスを調理し売り出したのが丸善なのです―と耳学問を話し明治時代からの名物であり、新宿は中村屋のカレーと並び庶民派には大もての食べ物ですと説明すると「なるほど」と、あの気難しく一見すると田夫野人風の紳士が納得したかのように頷いたのが今も胸底に生きる。本永さんはツニブラの重役だし、遯生も訪日しての偶然の賜物だが、あの出会いが懐かしい▼本永さんは元パウリスタ新聞の記者で私達の大先輩である。1953年にテゲルペデル号で来た人だから邦字紙の戦後派記者の先駆けとして健筆を振い活躍する。故山本喜誉司氏に招かれ藤井卓治(サ紙)、椎野二郎(日伯)両氏と共に本永さんも文化協会に移り、あの勝ち負け混乱のころをコロニア一本化に尽力したのはもっともっと評価されていい▼本永さんがどうして玉川大学に進んだのかを本人に聞いてはいないが、恐らく―創立者であり「真善美聖健富」による全人教育を掲げた小原国芳に惹かれての入学だったのではないか。いささか気短であったらしいけれども、肥後モッコスを貫き通し豪胆で無欲恬淡たる生涯に衷心からの拍手を送りたい。享年79。(遯)