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学移連創立55周年=海外雄飛を夢見て=羽ばたいた学生たち=連載《6》=第5次調査団の徳力さん=悲惨だった移住地の現実

ニッケイ新聞 2010年6月16日付け

 第5次南米学生実習調査団・農業部門として派遣された徳力啓三さん(三重大)の小学校時代の友人は、「当時からブラジルに行くんだ」と言っていたという。
 中学生になってもその熱は冷めず、両親を説得するため工業高校で機械を勉強したら何とかなるのでは、という考えで機械科に進学。それから父に「機械だけ勉強していても仕方ない、大学くらいは」と言われ、猛勉強の末、「ブラジルに行くために」、1960年に三重大学農学部に入学した。
 早速夢を叶えるべく、ブラキチの先輩と共に「海外移住問題研究会」を設立。当時、あちこちの大学に「中南米」や「ラテン」と名のついたサークルがあった。部室には頻繁に出入りし、ブラジル談義に花を咲かせた。「なんとなく集まっていたし、空手や柔道で鍛えている人ばかり。バンカラな学生が多かったね」と語る。
 学移連では年に1度「夏期全国合宿」があり、兵庫県・六甲であった時には三重県から自転車で向かったことも。合宿が一つの選考会で、名前や顔を売る格好の場だった。その甲斐あって第5次団に決まった。
 63年6月10日サントス着の「ぶらじる丸」で着伯した徳力さんが研修に行ったのは、戦後移民がどんどん入植していたトメアスー移住地。まさに全盛期だった。
 第1トメアスー移住地に入り、ひたすらピメンタを収穫するのが仕事。当時のトメアスーは戦後、58か59年頃から入った人たちが多く、古い人でも6年くらいで、みな必死に働いていた。
 徳力さんにとってはピメンタの収穫よりも、その後、半年間かけて行った移住地まわりの方が強烈に印象に残っている。北東伯からサンパウロまでほとんど無銭旅行で、23の移住地を巡り歩き、日本人がどんなに苦労しているかを垣間見た。
 「アマゾン地方は特に気の毒だった。政府の杜撰な計画のもと、ろくすっぽモノができない、など悲惨極まりなかった」とやるせない表情で語る。「マナウスから川を渡っていくエフィジェニオ・サーレス移住地は、4キロの川を渡りきれず、出荷できなかった。鶏や少しの野菜で生活しており、全てが不憫で気の毒でした。彼らと話していると、グチしか出てこない。学生に言っても仕方ないと分かっていただろうが、将来の見通しもないまま、お金も底をついていたみたい」。
 そんな移住者の姿を見ていて、できることはなかった。「実際にもてなしもできない彼らは、『こんなところで辛抱してくれ』と言い、それでもなけなしのお金を餞別にくれた。〃日本人だなー〃って思いましたよ」と回想する。結局、その時の見聞が学移連の調査報告であり、大学の卒論になった。
 帰国後、夏休みに全国の高校へ行き、体育館で全校生徒へ向かって、「日本だけが世界じゃないんだ」とブラジルについての経験を必死になって喋った。
 徳力さんは、「今でも若い時の意気を思い出せるのは幸せ。やっぱり当時の思想で生きていますよ。本体はなくなっても、その時代を強烈に生きてきて、夢を作ってきたからですよ」と語り、「学生時代に養った気持ちは『日本が飢餓になったら食料を送ろう』というもので、その気持ちは今でもあるし、原動力になっているよ」と目を輝かせていた。(つづく、金剛仙太郎記者)

写真=自宅にて徳力さん夫妻(2010年2月)