ニッケイ新聞 2010年7月2日付け
【09年4月4日付け既報関連】ほぼ百年前、1913年に渡伯した母が幼少時代を過ごしたグアタパラ耕地――。そこに縁の深い同移住地48周年式典に出席するため、小井手桂子さん(84、広島県)=広島市在住=が初来伯し、7月1日午前、サンパウロ市内ホテルで記者会見した。母・伊勢子さんが残した写真が、移民史を塗り替える貴重な記録であることが最近明らかになってきている。45年8月、広島市内で被曝した小井手さんは「あれ以上怖いものはない」というが、その経験を持ってしても「古田川夫妻がいなかったらブラジルまで来なかったかもしれない」と言う。不思議な縁がつなぐ移民史のドラマが、そこには隠されている。
「母が育った地、洋裁学校のルーツのような気がして、これ以上待ったら行けなくなる、そんな決心をしてやってきました」。小井手桂子さんは、そう言ってにっこりほほえんだ。
小井手さんが学園長をする学校法人小井手学園・広島ファッションビジネス専門学校は、母・伊勢子さんが1932年に始めた洋裁教室が発展したもの。創立78年、同種のものとしては同市内最古という。今では生徒数460人以上、広島駅にほど近い目抜き通りに9階建ての校舎がそそり立っている。
当時7歳だった伊勢子さんは13年、第5回移民船・雲海丸で両親に連れられて渡伯し、最初はサンマルチン耕地に。翌14年11月には「日本人学校があるから」という理由でグアタパラ耕地に移転入学している。従来は15年10月創立の大正小学校が日本語教育の嚆矢とされてきたが、この記録によりグアタパラ耕地の日本人学校の方が早かったことが明らかになった。
ところが同地を世話していた平野運平が、15年8月から自ら平野植民地を作って仲間の日本移民を引き連れて移りはじめ、17年9月に学校が閉鎖され、小井手家はミナス州で米作をすることにして再移転をした。
米作では儲からず、19年に再びグアタパラ耕地に戻り、15歳になっていた伊勢子さんはそこで「フランス人アンヌ夫人」に洋裁を習い、これが帰国後に洋裁教室を開く原点となった。23年9月に関東大震災が起き、邦字紙が一斉に報じた。東京に祖母が住んでいたことから家族で心配が募り、資金も貯まっていたことから同年11月のわかさ丸に乗って家族で帰国した。
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島根県人会の古田川英雄会長(68、島根)の妻・揚子さんは76年に移住する前、同校で学んでいた。その縁で93年頃に伊勢子さんを訪問した折、「今ブラジルに住んでいます」と報告すると、「じゃあ私の本を読みなさい」と『宏深の夢』(1992年、参修社)を渡され、それを読み、伊勢子さんが元移民だとはじめて知った。
伊勢子さんは01年に96歳で他界した。08年9月に揚子さんが学校を再訪し、桂子さんに「なにかブラジル時代の史料があれば」とお願いした。翌10月頃、桂子さんが遺品を整理していたところ、偶然本箱の引き出しの奥に大事にしまわれていた写真が出てきた。「――巴羅小学校」との表札の前で、平野運平も一緒に移った記念写真だった。サンパウロ市の写真館が撮影したもので立派な台紙に納められていた。この写真の存在により、本の中に書かれた前述の歴史が裏付けされた。
翌09年3月に古田川英雄さんは、桂子さんが郵送したその写真を受け取ったが、肝心の揚子さんは2月に急死していた。でもこれが縁で、グアタパラ文協の川上淳会長から今年の慰霊祭への招待状が送られ、4月には会長自ら同校を訪れて、来伯を勧めたことで決断した。
娘の椎野千砂(ちさ52)さんと二人で来伯した桂子さんは、「やっぱりブラジルは遠い。古田川さんに出会わなければ来なかったかもしれない」としみじみいう。二人は3日に行われるグアタパラ入植48年祭に参加したあと、6日晩に帰路につく予定。