ニッケイ新聞 2010年7月2日付け
日系社会面に詳報した広島から来伯した小井手桂子さんの話を、実に感慨深く聞いた。「母(伊勢子さん)が60歳を過ぎて本を出版する時、清書を手伝っていて初めて、そこに書かれていたブラジル時代のことを知った」という。あまり家庭内でもその時代の話は出なかった▼でも「思えば、時々ムイント・グランデとかオッセとか、何気なく言葉に出ていた」と振り返る。人格形成期の7歳から10年間を過ごしたブラジルは、伊勢子さんの生涯に大きな影響を残したに違いない▼一介の洋裁教室を広島市きってのファッション学校に育て上げた後も、伊勢子さんは学歴がグアタパラの3年間のみということに劣等感を持っていた。「母は80歳を過ぎた頃から、学歴がなくても努力こそが大事と考えを変え、ようやく劣等感を克服した」と桂子さんはいう▼本紙07年8月14日付け「ドウラードに眠る初期移民」で報じたように、サンパウロ州ドウラードの町の墓地にある位牌堂には、半ば忘れられた形で、伊勢子さんと同じ雲海丸で来た三十余柱の位牌が納められている。こちらの人々はサンタコンスタンサ耕地に配耕され、衛生不良による腸チフス蔓延で、わずか半年の間に多数が亡くなった。長い年月を経て文字がかすれた木板には「抵抗力の弱い少年少女は相次いで倒れ」と当時の悲惨な状況が記されている。この位牌堂は犠牲者を弔うため19年、地元有志により建立された▼日本での家柄を捨て「サントス港でヨーイドン」とばかりに再出発する移民の人生。着伯間もないブラスの移民収容所の一夜が運命の分かれ道だったとは、今にして初めて分かることか。(深)