ニッケイ新聞 2010年7月13日付け
7月9日のサンパウロ州独自の記念日「護憲革命記念日」、サンパウロ市南部のイビラプエラ公園で開かれたセレモニーには約5千人が集まり、ブラジルの共和制確立を掲げて命を捧げた英雄たちを偲んだ。10日付エスタード紙が報じた。
1932年の同日、ジェトューリオ・ヴァルガスの独裁政権に不満を抱くサンパウロ州民が立ち上がり、志願兵を集め政府軍に立ち向かった。87日間の抗争の末に圧制されたが、その後の共和制確立の流れに変化をもたらしたとされている。
9日、イビラプエラ公園では生き残った志願兵らに続き、サンパウロ州の旗を掲げた騎馬隊が行進。戦没者の棺が通り過ぎると、志願兵からは戦友に対して拍手が沸き起こった。
革命軍の指揮をとったジョルジ・ミシャラニィ氏(94)が表彰され、同氏は「ブラジルで唯一の護憲運動に参加できたことは大変な光栄だった」と涙を落とした。
当時、運動の隊長を務めたジノ・ストルファルジ氏(96)は、「ブラジルの長い歴史の中でも、国民が自ら立ち上がった最も大きな運動を記念する日だ」と語っている。
また、革命勃発直前の同年5月23日には、サンパウロ市で革命運動を発起した4人の学生が政府軍により殺されている。彼らは名前の頭文字をとって「MMDC(マルチンス、ミラガイア、ドウジオ、カマルゴ)」として知られ、革命運動の英雄として称えられてきた。
4人のうち、唯一結婚し子孫がいたのがカマルゴだった。カマルゴの孫アントーニオ・デ・カマルゴ・アンドラーデ・ネット氏は同紙のインタビューに、「祖父の行いは常に賛美の言葉を受けたが、孫であることをひけらかしたりしたくなかった」と、思いを語っている。
カマルゴの妻イナイアは、生涯再婚することはなかった。孫の教育にも力を注ぎ、92年に亡くなるまでサンパウロ市ジャルジンス区にあるカマルゴとの思い出の家に住み続けていたそうだ。
一方で、革命運動の生き残り志願兵55人や運動中に夫を亡くした未亡人ら600人には恩給制度が設けられているが、それは月々たったの450レアル。サンパウロ州が定める最低賃金以下の額に革命運動の英雄たちへの敬意を疑問視する声も出、金額調整の意見があがるが、州政府は否定的な立場をとっているようだ。