ニッケイ新聞 2010年8月24日付け
1960年8月13日サントス着のぶらじる丸同船者会が14日、サンパウロ市の宮城県人会館で開かれた。渡伯50年で初めて開かれた今回の集いには、ブラジリアやリオなど各地から25人の同船者とその家族らが集まった。半世紀ぶりに顔を合わせた出席者たちは、互いの顔を当時の写真と見比べながら、思い出話に花を咲かせた。
神戸港から出て横浜に寄ったぶらじる丸は、約820人の移民と100人の技術者を乗せて7月4日に日本を出発。40日間の長旅を経て、国内でまずパラー州ベレン、リオを回った後、8月13日にサンパウロ州サントス港へと到着した。
同船には福岡、山口、熊本など九州出身者も多く乗り込んだ。石炭から石油へと需要が変わり始めていたその時代、北九州工業地域で炭坑が閉鎖されるなど経済が低迷していたことが、ブラジルに活路を見出す1つの理由になっていたそうだ。
コチア青年第2次8回の中園公明さん(70、福岡)は「不景気で何もすることがなかった。日本は窮屈になり、14歳からブラジルに来ることを夢みていた」と若かりし頃を思い出す。
同船にコチア青年は26人。イタケーラ、サントアマーロ、カーザ・グランデなどサンパウロ市近郊に入ったコチア青年の中には、1週間で〃逃げ出した〃人もいたとか。同年には一度、コチア青年だけの同船者会が行われたそうだ。
「船酔いに苦しむ妻のために、上陸するたびになけなしの金でフルーツを買い込んだ」と思い返すのは中村良(まこと)さん(長野、74)。コチア青年夫婦移民で来伯、当時、妻悦子さんは妊娠6カ月だった。
夫妻はイビウーナでジャガイモ作りをした後、商業インテリアで生活を築いた。現在は息子5人と多くの孫に囲まれる。「丈夫な奥さんと来て良かったよ」と笑顔だ。
よく通る声で乾杯の音頭を取った野口圭三さん(72、長崎)は、神戸の斡旋所で開かれた出航前の宴でも司会を務めていたそう。それを覚えていると声を上げるのは、当時11歳で家族と乗船した串間和子さん(佐賀、61)。串間さんは、「幼い妹、弟も一緒だった。こんな家族構成で良く来たと思う」と母吉田政子さん(89)と振り返った。
同会世話人の菅沼東洋司さん(68、長野)は「同船者は先輩後輩の関係もなく、兄弟以上の関係」と和気あいあいとした会場の様子を見つめ、「今後もささやかに続けられたら」と話していた。