ニッケイ新聞 2010年9月21日付け
古墳には謎が多く、古代史は難しい。縄文文化の水準は低いとされていたが、青森市の三内丸山遺跡の発見で見直しが進んでいるし、島根県の荒神谷遺跡から銅剣358本と銅鐸6個が見つかり出雲神話がまったく新しい観点からの研究が進められている。また1996年には、島根県雲南市の岩倉遺跡から39個の銅鐸が出土し学会がひっくり返るような騒ぎにもなった▼奈良県明日香村の牽牛子塚古墳が、斎明天皇と娘の間人皇女の陵墓に間違いないとの報道を見たときには、先述の青森と島根の遺跡のこともあるし「これは大変なことだ」の思いである。勿論、宮内庁は同県高取町の古墳を斎明陵としているので今後も議論が起こるだろうが、これを契機として天皇陵の科学的な解明へと進みたい。古墳と一口に言うけれども、日本には16万基超もあるし、古墳の数は第1位の兵庫から、千葉、鳥取と続く▼あの仁徳天皇陵は、クフ王のピラミッドと始皇帝陵よりも大きく、世界一の広さを誇るのである。卑弥呼が埋葬されているの説もある箸墓古墳にしても、日本書紀には百襲姫命とあるけれども、彼女の父・孝霊天皇は、今日ほとんど実在を否定されている1人であり、書紀の記述を信じる人は少ない▼それにしても、斎明天皇は、皇極天皇から重祚した人であり、子の中大兄皇子が母の前で重臣の蘇我入鹿の惨殺や妹の間人皇女との近親姦をも知っていた。そして―朝鮮・百済を救済のため筑紫(福岡)に出向き朝倉橘広庭邸で病没した哀しくも逞しい天皇であったらしい。(遯)