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我が移住人生意義あり=山下治さん

特集 コチア青年移住55周年・花嫁移住51周年

ニッケイ新聞 2010年10月23日付け

 ある日の新聞記事が私の人生を決めたといえる。 
 それは「行け南米の宝庫へ」と、若者に海外雄飛を呼びかけたものであった。青春の血が躍動し、早速県庁に担当者を訪ねた。21歳の秋である。 
 担当の方は南米移住の前に北米はどうか、と進めて下さり、北米青年に応募。仮合格となり、その日を待つも、北米事情で中止になった。 
 結局、私はコチア青年としてブラジル移住を決め、両親に内緒で申し込むも、そのうちばれて父の猛反対に合う。 
 私は5人兄弟の長男であり、父は当然後を継ぐものと決めていた。 
 小さな漁村で漁業の傍ら、村に一軒の雑貨店の経営で、生活は安定していた。 
 しかし、日本はまだまだ不況で就職難の時代。我が家は弟に任せて、一つ自分の能力を試してみようとの決意であった。
 父は根負けして、同郷の旧移民の方に世話になることを条件に同意してくれた。 
 1959年3月、23年間育まれた故郷を後に、大望を抱き南米の大地に移住したのである。 パトロンの入江様はコチア組合員であり私を指名して雇って下さった。ユーカリ苗、モランゴ、ウーバを栽培する農家で、同郷であることから家族同様に親切にして下さった。カトリックの信仰に厚い一家の生き様にふれ、何のためらいもなくその信仰に入る。 
 移住して一年が過ぎ、私でも農業がやっていけると判断。それなら結婚しなくてはと、郷土の先輩に良い人を世話して欲しいと便りする。私が移住すると決まると青年団活動での仲間から、貴方のお嫁にと、4、5名もの申し出があるのに困ったこともあり、その中から誰かが来てくれるものと楽観していた。しかし、いざとなるとそう簡単ではなかった。 
 先輩は新聞で花嫁求むと知人の記者に記事にしてもらった。「竹の柱に茅の屋根、手鍋さげても」と、裸一貫の青年と力を合わせて頑張ろうという心意気のある女性を募集して下さった。 
 やはり世間は広く、それに応募してくれる女性があり、まず先輩が面接。一家に泊まりがけで話される。両親も訪問する。まだ高校生だがしっかりしている、家庭はとても良い、親も賛成と、この女性と結婚せよと進めてくる。 
 まだ若いし社会経験もないしと思うも、先輩、両親を信じて一生を共にすることにした。 
 2、3度の文通で彼女はサントスに上陸した。学生姿の写真とは別人のようで頼もしく、一人前の女性らしい容姿で、苦労は覚悟と話す。私は2人で労働者として働く事は大変だと思い、パトロンの了解を得て、ミナス州ポッソス・デ・カルダス近郊のブラジル人農場で歩合として就労。新婚生活がスタートした。
 野菜をつくりポッソスの町に運ぶ(そこは温泉町)のんびりと生活ができ、長男も生まれた。
 しかし、将来独立を考えることは思案中であった。
 そんな時、ブラジルに福井村ができる、お前も入り頑張れと、父から便りが届いた。 
 土地代金のうち10万円は県が補助して下さる。5万円は親元で、残りは10年分割払いと、好条件だった。 
 早速現地を視察すると、造成、営農指導する南伯農協拓殖部長の唐沢さんがおられ、親切に応対して下さった。
 私の問題点は営農資金であり、その方は移住振興で融資して下さるとの事。組合でもトラトールなど作業費は協力すると有難い話。それではと、平坦で比較的樹木の小さいロッテを選び、入植を決めて帰る。 
 故郷の青年団活動で取り組んだ「新しい村つくりの夢」が、この大地で真の新しい村造りとして実現するのだと、喜び勇んで準備に取り掛かる。 そして、1963年2月3日、道路が最悪の中、ピニャール移住地(福井村)に着いた。 
 村には日本からの3家族が入植しており、私は現地入植第一号であった。生後6ヵ月の長男を連れての開拓一歩が始まった。 
 明るい豊かな農村建設をと、理想に燃えての入植であったが、当てにしていた融資が間に合わず、資金不足から、元パトロンに友人にと借金して、初年度でやっと第一作目のトマテの収穫に漕ぎつける。大豊作だが安値で加工用に販売されるなどで、友人への返済がやっとであった。 
 次々と野菜を植えながらぺッセゴ、ウーバを植えての初期。失敗も重なりながら儲けられず、初めての貧乏生活を体験。そんな中、次男、長女と生まれる。疲労も重なり妻が病む、隣の方に子供を預けて医者通いも二度三度。「万事休す」とはこの事かと、理想に燃えての入植だったのに悔しくて眠れぬ日々が続いた。
 「もう駄目だと云う時が仕事の始まりだ」と、ある人が書いている。成功とは諦めない事とも。私は下村湖人の書にある「一歩一歩小刻みに」を実践した。 
 苦しい中、100本、200本と植え続けたウーバが収量も増え、価格も安定して、10年目にしてやっとウーバ一本で営農が確立するようになった。 
 村にはJICAと福井県の支援を得て電気も入り、将来の見通しも明るくなり村は活気づいた。
 私は入植2年目から村の会長、農協長など貧乏生活の中、小使い役を引き受けてきた事から、多くの方々と接する機会を得た。
 特に南伯農協中央会の中沢理事長様、平松先生、唐沢主任等理事の方々から絶大な指導支援を賜りつつ、理想郷実現を目指し、私なりに精一杯の努力をしてきた。 
 福井村建設ということから福井県の支援を頂き立派な会館が建設できた。 
 組合施設の新築は、富森理事長の英断を得て実現。折から主産物ウーバは輸出農産物となり、村つくりは軌道にのった。(この施設は中央会解散の今も活用されており、二世達中心で200家族組合員と発展している)。
 ブラジル語学校はJICA、州政府の支援のもと、約500名の生徒が移住地の内外から通学、ブラジル国の未来の担い手として勉学に励んでいる。日本語学校も、JICAの絶大なる支援で日本語モデル校として、少子化の中、40名余の生徒の通学で、日系人らしい立派な社会人の育成に努めている。 
 また、村の中央近くに天野鉄人氏より日本語図書館、ホテル、球技場が建設され、コロニアピニャールの内外の方々が活用している。 
 日本移民100周年には、市長の尽力により州道から村の中央までアスファルトが完成。記念の大鳥居も建立された。 
 入植以来48年、関係機関のご支援のもと、村の施設は整った。立派な後継者も育っており、理想は近づいたといえる。 ただ近年、主産物ウーバの価格低迷と日本出稼ぎで村に活気がなく、元気の無い農家が増え、一抹の寂しさを感じる処である。 
 私は福井県人ということで選ばれて会長を5年、コチア青年移住者として副会長、会長を務めたりと、予期せぬ方面に引き出されたが、それぞれの会員の協力を得て大過なく務め終え、個人的にも後継者に恵まれ、季節々々の果実の実る理想的な農園に発展。
 「我が移住人生意義あり」と、思い改めてご指導ご支援を賜った方々に心から感謝の意を表する処であります。 
 今年コチア青年移住55周年を迎えるにあたり、高橋会長の補佐役としての50周年が思い浮かびます。 
 その一つに、訪日して農水省に時の島村大臣を訪問、式典へのご招待を申し上げ、記念碑へ揮亳「人類と自然の調和」をお願いすると、素晴らしいお褒めの言葉を頂き喜んでお引き受け下さった事(大臣は郵政民営化に反対して罷免され式典参加は実現しなかった)、首相官邸に山崎官房副長官を表敬訪問した事など、コチア青年代表としてこそと、思い改めてコチア青年としての誇りと責務を感じ、「さらなる精進を」と思う次第です。(元コチア青年連絡協議会々長、ブラジル福井村会長)