特集 コチア青年移住55周年・花嫁移住51周年
ニッケイ新聞 2010年10月23日付け
月日のたつのは早いもので、あれから48年の歳月が流れた。コチア青年移民が始まってより7年目の1962年8月15日、第一回コチア青年移民大会が開催された。会場はコチア産業組合ジャタック事業所の大食堂を使用させてもらった。
大会への参加者は、まずコチア関係では、コチア青年7百人余、コチア組合井上会長、安田専務ほか役員、幹部職員、倉庫主任、引き受け組合員代表者などであった。
来賓としては日本総領事、海協連、全拓連、日系諸団体の代表者などが参列下さる。さらに日本から、コチア青年移民送り出しの代表荷見安全中会長、内閣移住審議委員、宮城孝治の両氏が老齢にもかかわらず遠路ご足労下さった。
このように内外より大勢の方々の参列により総数9百人を迎え熱気あふれ若人らしく、かつ有意義な大会となった。移民自らによるこのような大会は、日系社会では嚆矢であった。
山口節男大会委員長の開会の挨拶は、リーダーシップも堂々としたもので一点の非の打ち所なく、列席者及び報道陣からも絶賛を浴びた。
さて、ここから見出しに従って思い出に入るが、私の紹介したいのは、この大会の構想、大会に至るまでの準備、動静などで、言わば裏話である。
この頃までにコチア青年は2千2百人が着伯しており、その内の70パーセントは4カ年の義務農年契約を満了し、独立ないしその準備をしている段階であった。
すでに5百人余はコチア組合に加入して独立の生産活動に励んでいた。しかし独立とは云っても駆け出しの百姓で前途にさまざまな難問が山積していた。
また、4カ年就労中の後輩仲間の現状や将来のことなどでは、改善、改革すべきことなど随分あった。このような問題への対処や、また7年間汗を流した今日までの姿、成果で、日本、ブラジルの関係者に報告すべき事柄も沢山あった。これをどのような形で発表するか、と云う起点から大会の構想が浮かび上がった。
だが独立したばかりの我々が、これを大会に結びつけることは至難の技である。ではこれをどのように解決したか、以下がその種明かしである。 ずばり申せば、この大役の道案内を果たして下さったのは、山中移民課長であった。この頃の山中さんはサンパウロ近郊で独立して、ますますの活動をしている各地の青年を訪ねた。
また、移民課にやってくる青年の意見や生活の現状などを良く聞き、青年達の実態現況を良く把握していた。
さらに就労中の仲間がパトロンとの不和で移民課に相談にくる事も多かったので、この応対には青年をなだめ諭し、時には叱り、喝を入れるなど巧みな指導力を発揮していた。
以上述べたような様子で、山中さんは青年の能力、個性などを良くつかんでいた。
このように多くの青年と対応している山中さんの結論は、一度青年を集め懇談会を開催することであった。
早速、20人程のリスタをつくり呼びかけた。この会合に集まった青年達は、サンパウロ市近郊で独立しある程度自分の意志で活動出来る者ばかりであった。
だが、お互いに同船者、同県、私はある会議の折、帰宅する便がなく、山口さんの農場のあるエンブーの私宅に一泊させてもらった。
以上のような経過を経て大会の構想内容も煮詰まってきたので、大会委員の選出を行う。これには山中さんが、適材適所、そのポジソンに相応しい人物を推薦し、準備委員がこれを了承する形で、大会の主要な委員を決定した。選出された委員は次のようであった。
大会委員長=山口節男副委員長=清橋武司、瀬尾正弘、書記=鶴田弘、会計=平間靖旺、高橋善正、大会提案事項発表者=内村貞夫、東海芳麿、日比野勝彦、西田義定、阿部忠司、徳留清、伊勢脇英世、妻の所感=大気志奈子、黒木美佐子、浜本勝代、他委員省略。
委員の選出後、大会の具体案を持って、コチア組合井上会長を訪ね、大会開催の了解と、会場の借用の申し出をした。すると井上会長は何のための大会か、と反発される意見であった。
コチア青年はすでに5百人が組合に加入し立派に生産に励んではないか。意見があったら組合員として堂々と話して慾しい。以下、話し合いの詳細は省略するが、組合理事会で特に安田専務が、この大会は労働争議の一種ではないか、と懸念していたようである。
何度かの話し合いの結果、妥協案として大会プログラムのチェック、議事の具体的な説明、当日の飛び入り発言の禁止など、組合の意見を受け入れて、やっと理事会より了承された。
以上のような経過により第一回コチア青年移民大会の悲願が成就する。これはとりもなおさず、山中移民課長の青年の将来を思う熱意ある指導の賜物であった。
山中さんがある会合での折、「下元が生きていたら、君達にこのような苦労はさせなかった」と呟いた。
前述のようにこの大会の成功により、此れをきっかけとして提案事項であった協議会が「コチア青年連絡協議会」という名称で設立された。
以後、協議会はコチア青年の活動の母体となり、様々な活動を行い、青年仲間、家族のよりどころとなった。(コチア青年連絡協議会元会長)