ニッケイ新聞 2010年10月30日付け
私はサンパウロ州ビリグイ市で生まれ、現在バウル市のサンパウロ州立大学デサイン科の4年生になりました。私は日系三世、幼い頃から日本語学校に通い、少しでも日本文化に囲まれた環境で育ちました。アラサツーバ日本語普及センターに通い始めた頃、4歳の私は、慣れるまで何日か泣きながら父母に学校へ連れられて行きました。
最初の3年間、私は幼児クラス7歳以下の生徒がいるクラスで勉強しました。日本語は毎日欠かせなかった挨拶や音楽の授業、日常の活動や遊びにでも自然に導かれていて、私にとってとても大切な時期でした。
幼児クラスの最後の年にサンパウロ州ノロエステ地区を代表してサンパウロで行われた全国お話大会に参加する機会がありました。当時私の先生だった末永輝美先生そしてJICAシニアボランティアの宮崎先生のご指導のお陰で受賞できました。
7歳で初級1クラスに入学し、カタカナを始めひらがなから簡単な漢字まで読めるようになり、卒業するまでの6年間は非常に早く過ぎました。授業はいつも賑やかでダイナミック、そして先生方は教科書だけを頼りにせず、学習効果を高める為に色々な手段を使用していました。
そして言語だけではなく日本文化の色々な側面を示し、その魅力を私達生徒に実現出来るように音楽教室や書道教室(JICAボランティアのまさよ先生)、毎年行われた大好きな学習発表会や林間学校やお話発表会など様々な行事があり、いつも新しいテーマで活動できました。このような行事は生徒達に仲間意識を持たせ他の学校との交流も深め、教室で教えられた事を楽しく実際に適用出来ました。
私は日本語学校の先生に励まされ漫画に興味を持ち始め、日本語を使えるようになり、またそれがきっかけで自分が勉強している大好きなデザイン学を選ぶことができました。
2003年末に日本語学校を卒業し、それまで経験出来た6年間で様々な良い思い出をつくる事が出来ました。この間に最も忘れられないのは私達生徒と先生方の温かい関係です。いたずら好きだった私達を叱っても、すぐに温かく笑ってくださいました。困っていた時はいつも励ましてくださり、どんな事でもご指導してくださいました。
2005年にまた普及センターに戻り、夜のクラスで勉強する事になりました。その頃はJICAボランティアの井上由美子先生と勉強する機会があり、井上先生は新聞記事や文学のテキストを使いながら、簡単な日本の歴史や文学、少し日本の政治にもふれました。
15歳の時、JICA生徒研修のことを知り、初めて面接を受けましたが、受かりませんでした。
グラフィックデザイン学に入学した年に、祖父が福島県の研修について情報を得て早速、私に知らせてくれました。面接を2年も受け、二回目に南米国移住者子弟研修生として選ばれました。
2009年の1月にブラジルからの10人とアルゼンチンからの2人が12日の短期研修に旅立ち、長い年月の念願が叶い嬉しく思いました。スノーボード体験、陶芸、温泉、日本着物の着付け、座禅体験、野口英世記念館見学、刀造り体験、国際アート&デザイン専門学校視察、アクアマリン福島見学など色々な体験が出来ました。
その他にホームステイで二日間そこの家族の一人として生活でき、親戚訪問で知らなかった大事な家族の一部を知る事が出来、祖父が生まれ育った家にも連れていってくださり、とても素晴らしい研修となりました。
幼い頃に日本語学校で描き始めた夢が叶って、言葉に出来ない程素晴らしく感動しました。この夢を可能にしてくださいました祖父を始め父母、先生方、多くの皆様に心から感謝致します。
私達が習ったようにこれから先も日本語学校がずっと継続して、日本文化を吸収してくださる後輩が続いたなら素晴らしい事だと思っております。
渡辺パトリシア美智子 (わたなべ パトリシア みちこ)
1989年11月8日生まれ。21歳。三世。サンパウロ州立大学デサイン科の4年生。アラサツーバ日本語普及センター卒業生。
写真=東京タワーの特別展望台で渡辺さん(右から2人目の白いジャンバー)、友人たちと