ニッケイ新聞 2009年12月22日付け
「両親は医者から、この子は長生きしないって言われたそうです。ブラジルは雪が降らないから、あるいは助かるかも知れませんとも。といってもせいぜい17~18歳でしょうが、と」。その一言が、北海道札幌市に住んでいた沼田小一郎、たか夫妻をして1933年に渡伯せしめた。連れてこられたのは信一さん。
ロンドリーナに市制がしかれたまさにその年、34年に入植した。しかし、不思議にも91歳の現在に至るまでほとんど医者にかからず過ごす。10日の取材にもかくしゃくとした様子で答えた。
33年10月、最初に入ったサンパウロ州セッテ・バーラスから海岸山脈の原始林を100キロ余りも歩いて越え、イタペチニンガへ。汽車を乗り継いで、ロンドリーナを視察に行き、一目で気に入った。34年5月に転居し、同年12月に市制がしかれた。
「その頃にはもう500軒ぐらい家が建っていました。日本人も40~50家族はいました」
最も印象に残る人物は、氏原彦馬(1882―1972、高知)だという。北パラナ土地会社から日本人部総代理人として招聘され、1932年頃から分譲あっせんをはじめた。「33カ所も植民地を作った。しかも全部一等地ですよ。測量技師に頼んで、一番良いところを取っておいてもらい、会社に交渉して、日本人だけの集団地を作った。日本移民の恩人ともいえる人でしょう」。
氏原は、来年6月に100周年を迎える第2回移民船(竹村第1回移民)の旅順丸で渡伯し、モジアナ線のグアタパラ耕地などを経て、21年にパラナ州を視察し、日本人に最適地だと判断。サンパウロ州につぐ日系集団地となる基礎を作った。「氏原の北パラナか、北パラナの氏原か」といわれ、同地黄金期の功労者として知られる。
その他、開拓地独特の職業「道あけ」といわれる、ロンドリーナまでの一部区間の道路工事を土地会社から請け負った今川加寿太(かじゅた)、太田三津喜、緒方満吉らの名も建都の日系貢献者として挙げた。
入植翌年の35年には、もう日本語学校が建設されたことも特筆される。38年には氏原が子女のために、ロンドリーナ裁縫女学校も建設した。「サンパウロ市の赤間裁縫学校にお願いに行って、先生になれる娘さん二人に来てもらったんです」。
戦後も日本移民は町と共に躍進した。「かつて自分が大農場を持つなど絶対叶えられないと思ってました。でも不思議なものでポロっと手に入りました。50年、ドイツ人のファゼンデイロが『死ぬまで食べられればいい』という程度の値段で、手付け金もなしに売ってくれました。49年に一俵が100コントの時代です。ちょうどカフェ景気の始まりの頃だったので買えたのです」。
現在沼田家の兄弟4人で800アルケールの農業を経営する。信一さんだけで大豆を中心に200アルケールだ。
沼田さんの調査によれば、全伯に3千カ所の日系植民地が建設されたが、うち250カ所はパラナだった。
昨年の百周年では「各地方に力がついてきている」と感じた。「昔はローランジャの式典だけだったが、ロンドリーナもやる、クリチーバもやるようになった」としみじみ語る。「ただし、力がついた分、中心に立つ人は骨が折れるだろう」とし、さらなる発展に期待を寄せた。
(続く、深沢正雪記者)
写真=「孫がひらがなで手紙を書いてくれる」と喜ぶ沼田さん/1938年に設立されたロンドリーナ裁縫女学校