ニッケイ新聞 2009年12月29日付け
12月11日の西紙エル・パイスに続き、仏紙ル・モンドが24日、ルーラ大統領を「2009年の顔」に推挙したことが判明と28日付けフォーリャ紙が報じた。先にはオバマ米大統領からG20の席上で、「傑作な男」と称賛とも揶揄ともつかぬ紹介をした。ルーラ大統領に対する評価と裏腹に、ブラジル外交は2009年、世界の右翼政権から厳しい批判を受けた。イラン大統領の招待やホンジュラス大統領への伯大使館提供、ケーザル・バチスチの亡命容認、ドーハ・ラウンド、コロンビア米軍基地、オバマ政権に失望の公式声明など。
金融危機後の国際外交リーダー・シップの場では、左翼同盟から果敢な行動と称えられ、右翼からはホラ吹きと冷笑された。2009年のブラジル外交を振り返ると、格好ばかりで中途半端なものが目立った。
世界から注目を浴びた外交での腕の見せ所は、イランとホンジュラスであった。批判的な国々や米政府からは、その外交手法は幼稚で三流国家だと烙印を押された。
ホンジュラスでは、ブラジルがクーデターで成立した臨時政権に、頭突きを与えたことで国際社会ら喝采を浴びた。チャベス大統領の策略でセラヤを伯大使館へ受け入れたことから、ブラジルは窮地に追い込まれた。
伯大使館の軒先に宿を乞うたセラヤは、大使館の外交特権を盾にセラヤ派総司令部に衣替えをした。これでブラジルは米政府にソッポを向かれ、信用を失った。
ブラジルは11月だけで、パレスチナのアッバス議長とイスラエルのペレス大統領、イランのアハマディネジャド大統領を招いた。特に、ブラジルが国連のイラン制裁決議に白票を投じ、イラン大統領を招いたことが国際社会を刺激した。
ブラジル政府は米国のイラン敵視政策を批判し、伯米間に溝をつくった。伯米両国は2010年、ヒラリー国務長官が露払い、オバマ御大の談判で対話が始まる。これは、米流の恫喝外交と思わねばならない。
対話決裂の背後には、報復がある。対米外交は、アモリン外相の言葉を借りるなら「ストレス」の集積。ガルシア大統領顧問は「失望」という。
ルーラ大統領は、オバマ米大統領とコロンビア米軍基地について3回会談したが、いなされた。国防相会議で年末、南米地域内に地域外の派遣部隊が駐留する場合、前以って南米諸国の了解を得るという言質を取ったのが精一杯であった。
伯米間の溝は、伯仏軍事同盟で埋めるらしい。ブラジル外交の勝利は、五輪招致といえそうだ。