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日伯論談=テーマ「日伯経済交流」=第28回=ブラジル日本商工会議所会頭=田中信=日伯経済交流の変遷

2009年11月28日付け

 昨年はブラジル日本移民100周年を迎えました。この100年を日伯経済交流から見ると、最初の50年は主として人力をもって日本移民がブラジル農業の発展に地味だが大きな役割を果たした時代でした。
 1950年代以降はこれに資本と技術を携えた企業進出が加わり、ブラジルの工業発展にも貢献した時代と言うことが出来ましょう。
 1950年代、当時のクビチェック大統領は「50年を5年で」のスローガンを掲げてブラジル工業の近代化を推進しました。日本からも銀行、商社、紡績、農業機械など数十社が進出しました。IHI(石川島播磨造船)やナショナルプロジェクトとしてウジミナス製鉄が設立されました。
 次いで1960年代後半から70年代前半「ブラジル経済の奇跡」と言われた時代、推計約500社の日本企業が文字通りブラジルに殺到しました。紙パルプのセニブラ、アルミのアルブラス及びアルノルチ、セラード農地開発、カラジャス鉄鉱石開発などはこの時代の日伯合弁のナショナル・プロジェクトです。
 1980年代及び90年代はブラジルの債務危機、日本のバブル崩壊などにより日伯経済交流は停滞した所謂「失われた20年」で推計200社の進出企業が撤退、閉鎖などに追い込まれました。
 今世紀に入り前後から世界経済は新興国の高成長を牽引力に回復を開始しました。ブラジル経済もBRICs(ブラジル、ロシア、インド、中国)の一員として注目され海外からの直接投資も急増し、日本企業の進出も増加しつつあります。
 従来日伯間の取引は日本側の資源確保のための輸入や、ブラジル側の日本製機械設備類の輸入とそれらに関連した投融資の導入という単純なパターンが中心でありました。
 しかし今世紀に入ってからは最先端技術をめぐってのプロジェクト取引など、広範な分野への取引拡大が見られるようになりました。その導火線となったのがトヨタと本田のブラジルにおける乗用車生産開始で、多種多様な部品など裾野産業の進出が見られるようになりました。
 バイオ・エタノール、CDM(温暖化ガス排出権取引)などの新規ビジネス分野の出現。更にJAL(日本航空)や鈴与の小型ジェット機のブラジルからの輸入により、ブラジルが世界第3位の航空機メーカーということを初めて知った日本人も多いと思います。
 一昨年12月、サンパウロにおいてルーラ大統領、ジルマ官房長官、コスタ通信相など出席の下、地上デジタル放送導入に日本方式採用の式典が盛大に行われました。その後、今日までのブラジル政府の強力な応援もありブラジルに引き続きペルー、アルゼンチン、チリ、ベネズエラも日本方式採用を決定しましたが、更にボリビア、エクアドル、パラグアイ等も有望です。
 更にブラジルは2014年のサッカー世界選手権開催国、2016年オリンピック開催国として、カンピーナス―サンパウロ―リオ間の高速鉄道導入を決定、近く競争入札が行われることになっています。又サンパウロなどの大都市では市内混雑緩和のためモノレールの導入も検討されております。
 最近の日本企業のブラジル進出は、日本企業の中にブラジルを単なる通商相手としてではなく、戦略的パートナー、戦略的拠点として位置づけてゆこうとする動きが出てきたことを表しています。又ブラジル経済の持続的成長の結果として、ブラジル企業の海外進出が進展しています。
 その一つの具体例がペトロブラスによる日本の南西石油買収です。アジア進出の拠点として沖縄という立地と、日本企業をパートナーに選んだ戦略的選択です。
 日本とブラジルがお互いに相手を戦略的パートナーとして選択できるのは根底に100年間の相互信頼関係の積み重ねがあるからです。
 ブラジル社会の中では「ジャポネス・ガランチード」(日本人は間違いない)という言葉が定着しています。最低の小学校教育しか受けなかったルーラ大統領が最初にに就いた仕事は日系人の洗濯屋でした。一昨年、デジタルTVの日本方式採用決定の際、彼の「ジャポネス・ガランチード」の一言が鶴の一声となったと報じられています。

田中信(たなか・まこと)

 山梨県出身。1973年から78年、三和銀行代表としてブラデスコ投資銀行取締役。1980年から85年、ブラデスコ投資銀行専務取締役。85年、デロイト・トウシュ・トーマツ監査法人パートナー。94年同定年退職、同時に企業コンサルタント事務所開設およびリベルコン・ビジネス・コンサルティング社パートナーとして今日に至る。2003年1月から現職。著書「地球の反対側から見た日本―ブラジルの日本企業を通して考える」(1998年、日本図書刊行会)。81歳。(写真はルーベンス・イトウ氏撮影)