ニッケイ新聞 2009年10月8日付け
1965~69年にサンパウロ市長を務めたジョゼ・ヴィセンテ・ファリア・リーマが、7日に生誕100年を迎えた。
7日付けエスタード紙は「千の工事の市長」、ジアリオ・ド・コメルシオは「永遠の市長」と見出しを掲げる、リオ生まれのリーマは、58年に空軍少将まで昇格した軍人であり、土木技師、政治家といった顔も持つ。
しかし、複数の顔を持つだけでは、彼の死後、ピニェイロス~イタイン・ビビを結ぶ通りが、〃ブリガデイロ・ファリア・リーマ〃大通りと改名されるには不十分だ。
サンパウロ市長としての彼の業績は、工業の町サンパウロを、商業・サービスの町に変革すべく、交通網の整備などの市街化に心を砕き、尽力したこと。
就任当時、ゴミ回収は半分以下、電話回線も11年間拡張なし、墓地不足と問題だらけの市を大変革させた市街化では、先代市長2人が避けた地下鉄工事にも着手した。
道路網ではチエテとピニェイロスの両マルジナル、スマレー大通り、ラジアウ・レステ、23・デ・マイオなどの大通りや、51の橋を建設した他、道路拡張工事なども行っている。
文化や社会活動にも配慮したことは、英国のエリザベス二世がサンパウロ市を公式訪問した折に開設のサンパウロ美術博物館他、初の0~4歳児向け市立保育所開設、学校や病院、保健所などの増設からも明らかだ。
市長時代のリーマは、朝5時に起床して新聞を読み、7時にはスタッフと電話連絡を開始、工事現場に行かなければ8時には執務室入りという生活で、サンパウロ市を12に分割し、区役所制に先鞭をつけたのも彼だ。
市長就任前には、業績不振のVASPを立て直し、ジャニオ・クアドロスとカルバーリョ・ピント両知事の公共工事部門局長や、社会経済開発銀行総裁なども歴任した。
市長職は1969年4月に退いたが、同年始めの世論調査では市民の97%が良い・最良と評価。同年9月4日、リオへの旅行中、心臓麻痺で倒れ、サンパウロ市カンポ・グランデに葬られたが、葬儀には3万人が参列した。
先見の目をもって市街化を断行し、今も多くの市民に恩恵をもたらしている名市長ファリア・リーマの名は今後も語り継がれていくだろう。