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アマゾンを拓く=移住80年今昔=【ベレン・トメアスー編】=《27》=北伯日系人は5万人=都市部で活躍多様化へ

ニッケイ新聞 2009年10月2日付け

 「サンパウロから入ってアマゾン通って、カリブ海、ゴールはメキシコに決めてたんですがね」。真面目な顔をしてユニークなことを言うのは、汎アマゾニア日伯協会の事務局長、堤剛太さん(61、宮崎県出身)の専売特許だ。
 飛行機移住3回目の1974年にJICA海外移住研修生として渡伯した。「日本人がなるべくいないところとJICAにお願いしたら、じゃあ、サンパウロにしなさいと言われた」と〃堤節〃を連発する。
 サンパウロ新聞で記者として働くうちベレンの外交員と仲良くなり、結婚を契機に77年7月から同地に住みはじめ、今年32年目になる。
 実は、古武道の大森流居合い歴30年以上の腕前で、事務所の机の横にはこっそり、居合い刀が置かれている。個人的に練習を重ねる傍ら、ブラジル人相手に指導することもある。
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 汎アマゾニア日伯協会の資料によれば、トメアスーに端を発して80周年を盛大に祝ったばかりの北伯には、全伯の日系人約150万人の3%、パラナ州の15万人について3位の約5万人が住んでいる。ちなみに4位はリオ州の1万5千人。
 一口に5万人といっても、南米はペルー日系人の8万人に次に多い。ペルーの次はアルゼンチンの3万2千人だから北伯日系社会だけでもかなりの規模だと分かる。
 ただし、一口に北伯といってもマラニョン州、パラー州、アマパー州、アマゾナス州、アクレー州、ロンドニア州、ロライマ州と実に広大な地域がふくまれている。
 その中でも圧倒的多数を占めるのはパラー州の3万人だ。続いてパラナ州などから移転した二世農家の多いロンドニア州の7千人、そしてアマゾナス州とマラニョン州の5千人ずつだ。
 北伯日系人の約一割、4千人以上が集まる最大の日系集住都市は、文句なしにアマゾン川河口の町、パラー州都ベレンだろう。日本国総領事館はもちろん、同日伯協会、アマゾニア病院を運営するアマゾニア日伯援護協会、パラー日系商工会議所などの御三家を中心にゴルフ場もある。
 アマゾンへの戦前移民の合計は2680人、戦後は6907人、総計で9587人にもなるが、多くがサンパウロ州などの南部へ下った。アマゾンという過酷な環境に挑んでいった人たちという意味で、数字以上に価値のある存在感を示している。
 堤さんが事務局長をする同日伯協会(生田勇治会長)は、1958年、戦後移住開始5年目に創立された。初代会長はアマゾニア産業研究所の専務取締役を務め、「辻移民」枠をバルガス大統領から認めてもらうなど、戦後移民開始に功績のあった辻小太郎だ。
 『アマゾン60年史』によれば、「全アマゾン在住邦人を打って一丸とする組織の協会にして、日本の11倍に当るアマゾン地域に約7千人の日本人移住者とその子弟が散在し、各地に形成された日本人会を統合団結する事で、その融和と日伯親善、子弟教育、文化、経済の発展を図ろうと云う一大構想であった」と創立の目的が述べられている。
 農業から始まった日系人の歴史は、この町で多様化する。その最先端にいるのが、山田商会(Y・YAMADA)に象徴されるような商業分野への進出だろう。
 日伯協会の資料によれば、日系人の職業分布の傾向は、地方農村では農業者の割合が高く、大ベレン圏ではあらゆる階層の職業に拡散している。
 戦後移民が多いこともあって一世は農業(胡椒、果樹、デンデ椰子、大豆)もしくは養鶏、牧畜などが70%を占め、残りは会社経営や自営業者、そこで雇用されている者となっている。
 二世以降の世代は、教育機関の関係もあって都市に出てくる傾向があり、大学教授だけで15人以上おり、警察官、銀行員、建築士、医師、政治家など多彩な分野に進出している。(続く、深沢正雪記者)

写真=古武道歴長い堤事務局長