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アマゾンを拓く=移住80年今昔=【ベレン・トメアスー編】=《23》=デカセギで3割流出=祖国への想いさまざま

ニッケイ新聞 2009年9月26日付け

 ピメンタに突然拡がった病害に加え、80年代末には胡椒の国際価格が下落し、90年のコーロル・ショックにとどめを刺された。これらに背中を押され、トメアスーからの訪日就労は急増した。
 農場でブラジル人労働者を多く使っている関係や治安の問題などから、夫が残って農場の面倒をみて、妻が日本へいって「病院の付添婦」というパターンが多かったという。
 論文「トメアスー移住地の歴史と現状」(小野寺理佳、新藤慶)によれば、「1992年から15年間で60世帯254人がトメアスーを去っており、うち30世帯135人が土地を売って日本へ『引き揚げて』いる」(45頁)とある。
 残り半分はベレンなどへの転居だ。さらに「デカセギで再生できた農家と、日本に引き揚げざるをえない農家に両極化していることがうかがえる」(46頁)としている。寄せては返す波のように、次々と苦難はやってきた。

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 トメアスー移住地にある「加藤旅館」(91・3734・1210)の経営者、加藤アヤ子さん(65、秋田県)も89年から足かけ7年間、デカセギにいき、その資金でこれを始めた。
 82年に夫が交通事故で亡くなり、農場経営が難しくなったことが訪日のきっかけ。病人の付添婦の仕事で、「青森の人が沢山いた。アマゾンから来たっていうとなぜか笑われるのよね」。
 1960年のぶらじる丸で渡伯、まっすぐトメアスーに入植した。63年に結婚、子供5人のうち4人は日本で暮らす。「もう子供たちはブラジルに引き揚げることはないと思う。私たちが来た時とちょうど逆ね」。
 アヤ子さんは「移住したばかりの頃はずっと日本に帰りたかった。お姉さんもいるしね」でも、年月と共に気持ちも変わった。子供は日本にいるが、「今はもう日本に帰りたくない。年とって住む場所じゃない。ここには家もあるし」と考えるようになった。

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 一方、ベレン在住の濱口敏雄さん(73、長崎県)は、「我々が移住した当初、ブラジル人から日本には飛行機や船はあるのかと聞かれたが、デカセギに行ったら、三菱の工場で働く日本人から同じことを聞かれた。こりゃ、どうなっているのかと思いました」と苦笑いする。88年から短期で5回ほど、96年までに計4年間ほど働いた。
 濱口さんは54年、あふりか丸でトメアスーに家族で移住した。
 「88年は、35年ぶりの日本でしたが、成田空港に降りたときは、正直言って、日本という外国に来たという感じでした。まったく日本が変わっていて、自分の国に帰ったという実感が湧かなかった。見覚えのない祖国というのでしょうか」と振り返る。
 妻と共に温泉を訪ねるなど良い思い出も作ったが、イヤな目にもあった。
 長野県で働いている時だ。「おまえ等を慈善事業で雇ってやっているんだ、と豪語する日本人社長もいました。すぐバカヤローと怒鳴る。国会議員の秘書をやっていたとかいう方で、なにか気に入らないことがあれば、国会議員を動かしておまえ等を来れなくしてやる、と息巻いていました」。
 70年代のトメアスー時代から、ポ語文学の翻訳を始めた。伯文学の最高峰の一人エリコ・ベリッシモの作品『アンターレスの偶発事件』など幾つも訳した。「日本で出版社に翻訳原稿を持ち込んだ。あるところでは400万円出してくれたら出版すると言われたので、そんな金あるならブラジルでいい生活してるよと答えた」と笑う。

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 北伯日系人口の3割が訪日就労した時代もあった。90年代の中頃が最多で、00年を過ぎた頃から帰ってきている。
 汎アマゾニア日伯協会の堤剛太事務局長はこのデータを提示しながら、「昨年の9月からの金融危機以降、目立って帰伯者が増えたということはない」という。都市部の帰伯者の中にはバールやパダリア、エスペチーニョ店などを開業するなどの自営業者で成功している人が出てきている。
 地方部では農業だが、「新しく農地を買うにはよっぼど稼いでこないと無理。親兄弟の農場に投資する人はいるようです」と現状を説明した。(続く、深沢正雪記者)

写真=加藤アヤ子さん/濱口敏雄さん