ニッケイ新聞 2009年9月25日付け
【パリンチンス発=松田正生記者】アマゾナス州マナウスで西部アマゾン日本人移住80周年式典が行われた2日後、同州パリンチンスでもう一つの記念式典が22日午前に挙行された。同地は戦前のアマゾン経済を支えたジュート栽培発祥の地。式典が開かれたのは、その中心を担った高拓生(日本高等拓殖学校卒業生)が入植したビラ・アマゾニアだ。同州開拓の礎を築いた高拓生ら日本移民を顕彰して、記念モニュメントの除幕式、さらに高拓生の活動本部だった「八紘会館」再建の定礎式も行われた。2011年の高拓生移住80周年に向け、地元日系社会と高拓生の子弟らが中心となって歴史を後世へ伝えようとしている。
今式典はパリンチンス日伯文化協会(武富マリオ会長)と、子弟らでつくるアマゾン高拓会(佐藤バルジール会長)が中心になって準備を進めてきた。当日は同会関係者ほか、柴崎二郎マナウス総領事と石倉秀美副領事、JICAブラジル事務所の吉田憲次長、錦戸健西部アマゾン日伯協会長、ベレン高拓会の小野重善会長らも出席した。
フランキ・ガルシア郡長、武富会長ら地元関係者とともに船でビラ・アマゾニアへ到着すると、地元の「ツカサ・ウエツカ学校」の生徒、住民ら数百人が一行を出迎えた。
ジュート記念碑が設置されたのは、INCRAから提供を受けて造成された「リョウタ・オヤマ広場」。入り口に真紅の鳥居。中にはアマゾニア産業研究所の給水塔を修復、赤く塗った記念モニュメントがそびえる。そしてその奥に、ジュート栽培の様子を描いた壁画が設置された。柴崎総領事とガルシア郡長、高拓生戸口恒治氏の夫人、久子さん(75)、INCRA代表によって除幕。続いて尾山良太氏の胸像が除幕された。
この日はまた、父親が高拓生の池上アントンさん(70)が高拓生、アマゾン移住の歴史を書いた『a fibra e o sonho』の出版会も行われた。
同地開発に足跡を残した高拓生。あいさつに立った武富会長は、「彼らの夢は叶わなかったが、80年前に可能だったのなら今でも発展は可能」と述べ、「歴史を再認識し、再活性化することがコミュニティの発展につながる」と文化遺産を伝えることの重要性を強調した。
ガルシア郡長も日本移民が果たした役割を称えるとともに、第2次大戦中の抑圧に謝罪の意を表明。今後は歴史を伝えながら、港を日本風に改装するなど観光地としても同地の再活性化を進めていく考えを示した。
その後広場に近い、かつて八紘会館があった敷地へ移動して定礎式を行い、記念行事を終了。同日夜にはパリンチンス市議会で日本移民を顕彰する特別議会が開かれ、13人の先駆者の家族が記念プレートを受けた。
式典後、武富会長は「八紘会館を歴史的建築物として修復することを、住民たちも前向きにとらえてくれ感謝している」とほっとした表情を見せた。
アマゾン高拓会の佐藤会長も「コミュニティ全体が参加してくれてうれしい。父親たちが生きていたら感謝したでしょう」と話し、「高拓生の歴史を後世へ残すのは我々の務め」と語った。
2年後の高拓生80周年記念事業として計画されている八紘会館の再建。建設に使用する木材はIBAMAから寄付を受け、すでにプロジェクトもできているという。式典は第1回高拓生が入植した日付の6月20日にあわせて、2011年に行われる予定だ。
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1929年、グァラナ栽培を目的としたマウエスへの入植により始まった西部アマゾン地域の日本人移住。
高拓生は31年から7年にわたり、249人がビラ・アマゾニアヘ入植。その後、インドから持ち込んだジュート(黄麻)の種から尾山良太氏によって優良種が発見され、ジュートはゴム景気衰退後のアマゾナス州経済の35%を占める一大産業に発展した。
しかし日本の対米開戦とともに日本人は敵性国民とされ、拠点だったアマゾニア産業研究所は政府により没収、戦前のアマゾン開拓は挫折した。
戦後、日本移民はアマゾナス、ロンドニア、ロライマ、アクレなど四州の各地へ広がった。開拓の礎となった高拓生も各地へ根を張り、多くは亡くなったが、子弟らは社会の各分野へ進出している。