ニッケイ新聞 2009年9月22日付け
エリザベスサンダースホームから移住してトメアスーに残った最後の一人、中川純二さんは「みんな若いから週末は遊びたい。仕事で押さえつけるから反発して、みんな飛び出しちゃった。一人抜け、二人抜け…」と振り返る。
帰国した者もいればカスタニャール、リオに住む者もいる。なぜ一人残ったのかと尋ねると「みんな出ていく。誰か残ってホームを語り継ぐ人がいないと」と言う。
戦前移民の娘と結婚した時、美喜さんが日本から駆けつけて祝ってくれた。三子をもうけ、自分が家族を持つ身になった時、ふと実母に会いたくなり、九一年にデカセギ半分で訪日する。
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朝十一頃、神奈川県の小田原駅にある新幹線改札口で待ち合わせた。目印として「痩せて背の高い、手にジャンパー持っている」と伝えた。
「中川さんですか」と向こうから声をかけられた。「お母さんですか?」と尋ねた。「私は顔をみてもピンと来なかった。誰に会っているんだろうみたいな感じ。でも向こうはすぐに分かったみたいです」。
「父の写真はないか」と聞くと、「再婚したから全部焼き捨てた」と言われガッカリした。
そして、おそるおそる尋ねた――「ホームに預けたことを後悔しているか」と。いつか聞いてみたかった。
「…後悔している。死ぬまで後悔していく」。そう答えた母をみて、自分の気持ちは伝わったと感じ、自然に「あんたは悪くない。戦争が悪かったんだ」と口をついてでた。だが、それが慰めになったかどうかは分からない。
結局、夕方五時ぐらいまで駅前商店街のレストランで話し込んだ。
その後、もう一度だけ会いたいと思って、母の妹に付き添ってもらって自宅を訪ねた。だが、「向こうの家族が玄関に出てきて冷たくされた。それっきり会ってない」。後から漏れ聞くところでは、母はその時に家の中にいたらしい。
そのことを思い返すたびに、「二回裏切られた気がする」と感じるが、母には新しい家族があり、事情があるのだと頭では理解している。それでも、心のどこかに、ぬぐいきれない淋しさがあることも間違いない。
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沢田美喜さんは『混血児の母』(毎日新聞、五三年)で、若い日本の女性たちは「米国の男性をよく理解せず、またかれらの間に交わされた愛と約束の言葉をあまりに真面目に考えすぎている」(二頁)と弁護する。
「きっと帰ってくる、信じて待つように」。そう言い残して突然帰国した米兵を探して、混血児の幼子を抱えて二年も探し回った日本女性から相談を受け、美喜さんはボストンまで赴き、居場所を突き止めた話が紹介されている。
分かれたはずの米人妻と寄りを戻し、平穏に生活する元米兵に会い、その非をなじると「家庭の平和を乱したくなかった」と自己弁護した。
美喜さんは徹底的に代弁した。「あなたの家庭が平和になるのはいいが、その前に日本の女の家庭はメチャクチャになってしまったではないか! 二年も父を求めて部隊をさまよっているその母と子の気持ちを、いまは奔流のように、これでもかこれでもかとぶつけてやった。彼が頭を垂れ、あやまちをわびるまで」(同五十頁)。
戦後というのは、ただの戦争の「後」ではなく、進駐軍という特殊状況を生んだという意味で「続き」でもあった。
良くも悪くも、本当の実母に会ったことで中川さんの戦後は、ようやく終わったのかも知れない。
「立派な祖国がある」ことを知らせるため、中川さんは十七歳だった長男を一緒に日本へ連れて行っていた。自分がブラジルに来たのとほぼ同じ年だ。「気に入っちゃって、そのまま日本に居ついた。今じゃ完全に日本人になったな」と笑う。
今、訪日していた次男が帰ってきて農場を共にやっている。「ホームから持ってきたグローブを息子に譲ったよ」と笑った。(続く、深沢正雪記者)
写真=中川純二さん