ニッケイ新聞 2009年9月19日付け
「ブラジルに来る一年前、美喜さんから『お母さんに会ってみるか』と言われてビックリした」。中川純二さん(62、石川県出身)はそう振り返る。沢田美喜さんを実母だと思っていたからだ。でもその時は、「俺、会わない」と断った。
沢田さんは一九四七年に、進駐軍の米兵と日本人女性の間にできた混血児を預かるエリザベス・サンダース・ホーム(神奈川県大磯)を設立した。そこで育って十八歳を超えた孤児たちが、差別を受けずに仕事をする場として第二同ホーム(聖エステファニー農場)が、第二トメアスーに六五年に開設された。そこに移住した孤児八人のうち、今も残る最後の一人が中川さんだ。
中川さんも三歳でホームに預けられた。「右手を引っぱられて、ホームの入り口にあるトンネルをコツコツと足音をたてて連れてこられたことを、今でも憶えている。でも誰が引っぱっているのかは分からない」。母親は米兵と一緒に渡米するはずだったが、ビザがおりず生活が苦しいとの理由で預けたらしい。
湘南の大磯駅前の山の向こうには、一万五千坪もの広さを誇る三菱本家岩崎久彌(ひさや)氏の別荘があり、その中にホームはある。美喜さんは久彌氏の長女で、外交官の妻だ。久彌氏は一九二七年、サンパウロ州カンピーナス市に個人資金で東山農事株式会社(東山農場)を開いたことで、コロニアでは知られる。
大磯駅からは、明かり一つ無い細長いトンネルを通ってその〃別世界〃にたどり着く。
「空気は清澄で、世俗はトンネルで遮断され、広い芝生に七つの人種の子供たちがたわむれている。この光景は異様で、私たちの哀感と好奇をそそる。東洋でもない西洋でもない、〃不思議の国の芝生〃である」(『混血児』高崎節子、一九五三年、同光社磯部書房、五十三頁)。
十八歳になると、政府の援助が法律上切れるため、子供たちは否が応でも施設を出なければならない。しかし、高校を卒業しても「敵国の子」などと差別され、日本国内での就職はなかなか見つからない現実があるため、その行き先として希望を託されたのが、ブラジルのこの農場だった。
六三年に第一陣が入植したばかりだった第二トメアスー。沢田さんは前もってトメアスーを下見し、八ミリフィルムに撮ってホームで上映して希望者を募った。中川さんが渡伯したのも、やはり十八歳だった。同農場に六五年に渡伯したのは六人、翌年にもう二人、計八人が入った。
胡椒の黄金景気こそ過ぎていたが、まだ良い時代だった。中川さんらはトメアスーでも、ホームで習った野球や楽器演奏やダンスで活躍し、移住地で有名人になった。
ホーム時代、米軍基地の中の学生チームと試合をして大負けしたのを見て、沢田さんが「あんな負け方ない」と怒って、巨人軍の川上哲治を連れてきて指導させた。〃打撃の神さま〃仕込みの野球には自信があった。
幸い、トメアスーには三七年から野球が定着している。ホーム先発隊を中心にチームを作って、ファーストやピッチャーとして活躍した。当時、トメアスーには十一チームもあり、頻繁に大会も開催されていた。一度はトメアスー選抜チームに選ばれ、サンパウロ市まで遠征試合にいったという。
中川さんの話を聞きながら、当時を知る角田修司さんは「彼らは当時のスターみたいなものでしたよ」と懐かしそうに目を細めた。
当時、ジアマンチ・ネグロ、オス・オリテンタイスなどの日系楽団が三つも四つも競っていたが、そこにホーム出身者によるテンポライスが加わり、さらに華やかになった。
しかし、六六年以降、ブラジル外務省が園児への査証を出ししぶるような問題も起き、先発隊も次々に結婚独立した。「おおくの期待を寄せられた同農場も閉鎖を余儀なくされ、一九七五年に日伯農牧畜(有)に売却、経営が移譲された」(『七十年史』四十九頁)。
聖エステファニー農場がうまくいけば、ゆくゆくは沢田さん自身が移り住む計画まであった。(続く、深沢正雪記者)
写真=沢田美喜来伯を伝えるパウリスタ新聞(54年11月3日)