ニッケイ新聞 2009年9月16日付け
【パリンチンス=堀江剛史記者】アマゾンの 極暑に慣れて 半世紀―。アマゾン中流の町パリンチンスに住み、俳句を詠み続ける女性がいる。「もう20年間、マナウス俳句会に投句しています。でも最近、兼題が届くのが遅れてね」。そう現地の郵便事情に困り顔を見せるのは、戸口(旧姓恒松)久子さん(75、宮崎)。05年に句集『アマゾンに生く』を発行。アマゾン入植80周年祭を迎える今年、記憶を辿りながら、俳句を書き付ける日々を送っている。
「時々刀を提げて帰ってくる恐い人だった」という父芳男さんは、職業軍人で長く家にいなかった。終戦を迎え、職もなく、母光子さんが一町歩ほどの畑を耕し、家計を支えていた。
長女の久子さんは、高校卒業後、金物屋に勤めていたが、「戦争のないところに行きたい」という芳男さんの言葉が家族の運命を決めた。
「県庁の開拓課に行ったら、『ワニが人を食べるようなところに行くのか?』って止められましたよ」と笑う。
叔父にも反対されたが「辛いことがあっても話す家族がいないのは…」と、弟で長男の千三さんの高校卒業を待ち、五四年、神戸から家族八人で大阪商船あふりか丸に乗り込んだ。
モンテアレグレ第二次入植二十家族の一員として、萱葺きのアサイザール収容所に入る。
モンテアレグレ 支流の濁流 移民着く
区画割りの後、「天露を凌ぐだけの掘っ立て小屋」(アマゾンに生く)を建て、開拓生活が始まる。久子さんも伐採作業に加わった。
「斧をふるうのも初めてのこと、否が応でも自分の置かれている境涯を自覚せずにはおれませんでした」(同)。木の下敷きになって亡くなった青年もいたという。
アララ啼く 我等の樹々を 刈るなかれ
モンテアレグレに来てすぐ、結婚話が持ち上がる。二十歳離れた高拓生戸口恒治さん(埼玉)からの求婚だった。
「何も親孝行してないから三年間、待ってほしい」と家族と開拓生活を続け、組合にも勤めた。
約束通り、五七年に結婚。新居はパリンチンスに近い村、サンジョアキンだった。
恒治さんはジュートの苗を売り、栽培を指導した。他の高拓生らと仲買業を始めた。
しかし、やがて採算が取れなくなり、七二年にパリンチンスに居を移す。四人の子供にも恵まれ、教育の問題も考えた末だった。
満載の ジュートのカノア 夢昔し
女学校時代に学んだ裁縫が役に立つ。育児のかたわら、ジュート作業員用のパンツや〃土人のフェスタ着〃を縫った。
「そのフェスタに行った人が『みんなあなたの服を着てたわよ』って言うほど、売れたんですよ」と顔をほころばす。
悲劇もあった。麻雀をやっていた高拓生らが、長女サフィーラ(恒子)ちゃんに灰皿を洗いに川へ行かせた。
「後から見つかりましたけど、船の波にさらわれたんでしょうね…」。わずか三歳だった。
その後、雑貨店「CASA SONY」を営む。恒治さんは八六年に七二歳で亡くなった。
ジュートの仲買人だった長男オトニエルさんが後を継いだ。現在は二十五人の従業員を抱え、店舗の増築も進める。七人の孫と三人のひ孫がいるが、そのなかの一人を後継ぎにーと日本に送る。
「時間や約束を守ることの大事さを学んで欲しかった」
毎日、午前九時から午後七時半まで、カイシャでそろばんを弾く。
「お客さんとペチャクチャ喋って、楽しいですよ」
俳句はマナウス句会の人に勧められ、九〇年から始めた。〇五年には自身の移住五十年を記念した句集『アマゾンに生く』を発行。
今年アマゾン八十周年を迎えることから、二月から約三カ月で百八十句を作った。
「これが毎日の楽しみなのよ」。購読している邦字紙をくるむ紙に書き付けた句の束を見せ、笑顔を見せた。
戦後移民 八十年祭 古希を過ぎ
現在、パリンチンスに住む日本人は数人。俳句を楽しむ人は久子さんだけだという。