ニッケイ新聞 2009年9月16日付け
「胡椒景気で納税額が膨大な金額になったため、五九年九月からアカラ郡から独立し、パラー州六十番目のトメアスー郡となった。当時の州納税入郡としては、ベレン市、サンタレン市、カスタニャール市に次いでの納税多額郡として州経済に大きく寄与したのである」(『トメアスー七〇年史』同三十九頁)。
独立したトメアスー郡で、沢田哲(さとし)さんは五九年から六三年、弟の脩(ふかし)さんと共に郡会議員にも選ばれ、六一年に哲さんは議長にもなった。脩さんは六三年から日系初の郡長(第二代)にも就任し、トメアスーの空港にその名を残している。
『トメアスー開拓五十年史』に脩さんは「郡長時代の思い出」という一文を寄せている。
「六三年二月一五日、郡長選挙に立候補して当選、同二一日に就任式を行ないました。私が四二歳のときでした。母が亡くなったのが四二歳で、〝頑張れ〟と勇気を与えてくれているようで感慨無量。思わず、やるぞ!と自分を鼓舞したことを今も憶えています。六九年一月二一日まで郡長を勤めました」とある。
六九年から七二年までは、七人の郡会議員のうち三人を日系人が占めるほど、存在を強めた。まさにこの時代は、日本移民の時代であった。
胡椒の黄金期をはじめとする五五年頃からの二十年間ほどは、特別な時代だった。角田修司さんは「あの頃は、完全な日本人社会でしたよ」と振り返る。「映画は毎週二本立て、しかも土日の二晩見せてくれるでしょ。サンパウロのシネニテロイから持ってきて、肥料倉庫で上映していた。みんなあれを楽しみにしていました」。
その立派な映写機は、今も文協二階の移民史料館に展示されている。
週末には、組合の倉庫の二階でバイレが頻繁に行われ、パトロンに頼んで車を借りて、戦後移民の若者が集まった。
五三年に建てられた組合のピメンタ倉庫の二階は五〇年代後半から毎週、ダンスパーティの会場になった。下小薗昭仁さんは「最初は男女ごとに別れ、音楽が始まるとサーッととびついていきよった。恋愛の場所ってあそこしかなかった」と懐かしそうに述懐した。
『トメアスー産業組合三十年史』によれば、当時の組合員は二百十五人と弱小だが、一九六〇年度の総売上は三十九万二千コントにも達した。
これを、六一年度にコチア産組をしのいで日系一位にのし上がった南伯中央産組と比較すると、「組合員は三千八百とサンパウロ、パラナ両州に網の目のごとく張りめぐらされた三十六の出張所を擁しており、六〇年度の売上高百四十万六千コントであり、組合員数対売上高比においてはトメアスー産組の方がはるかに上回っているとさえいえる。つまりこれら南伯のコチア、スール・ブラジル、バンデイランテスなどの大産業組合とも堂々と肩を並べられるだけの実力を有している」(七十四頁)との自負すらあった。
六〇年代初頭は、アマゾンのわずか二百数十戸の日系農家が、世界の胡椒の七%を生産していた特殊な時代だった。
七五年頃から布団などの行商に同地を何度も訪れた網野商会の網野弥太郎社長も、「暑いからさすがに布団は売れなかったけど、その分、タオルケットや四、五人が入るような大型の蚊帳などの夏物をだいぶ買って頂きましたよ」と思いだす。
「毎年胡椒の収穫の終わった十一、十二月頃に注文を取りに行き、翌二、三月頃にお届けに上がるんです。その時に東映や松竹の映画のフィルムを持っていって上映して、喜んで頂きました。会館がいっぱいになりましたよ。大変な景気で、とにかく金がうなってましたから、サンパウロ近郊よりよっぽど景気がよかったですよ」。
サンパウロ市在住者にとってもアマゾンは遠くて近い、離れているようで身近な場所だった。(続く、深沢正雪記者)
写真=移民史料館の中を案内する角田修司さん