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アマゾンを拓く=移住80年今昔=【ベレン・トメアスー編】=《14》=グアマ=改革院が旅券を没収?!=6年で残ったのは4割

ニッケイ新聞 2009年9月12日付け

 「とにかく若かった。他県に行くような気持ちだった。失敗しても、やり直せばいいという安易な若さがあった」。大江牧夫さん(76、山形県)は麻布大学獣医学部を卒業した後、海外雄飛にロマンを感じて、五七年にグアマ移住地に第四次で入植した。
 同地造成が予定通り進まなかった背景には、五八年のブラジリア遷都や、六一年のBR十四号国道(ベレン~ブラジリア)にかかる莫大な費用のために、連邦政府が十分な資金準備できなかったことにあるようだ。
 入植者からの再三の窮状を訴える声をうけ、ようやく日本政府が重い腰を上げたのが五八年。調査団が現地へ向かい、「米作不適地」という当然の結論を出す。そのことから、さらに入植者に動揺が広がり、六〇年にはアカラ植民地へ十九家族が集団脱耕した。
 現地の夜逃げ事情を、後発隊は知らなかった。大江さんは「一次、二次の人たちがどんどん抜けているなんて我々は知らなかった。ただ、広大な土地がもらえるという宣伝を信じてやってきました」と振り返る。
 ここでもマラリアが蔓延した。獣医の有資格者だった大江さんは、地元民からも「ドトール」と呼ばれて頼られた。お産から病気の診察や予防注射までしてまわり、八面六臂の活躍をした。
 六年目の六一年には四割の五十家族が残るだけとの寂しい状況になる。六三年、相次ぐ脱耕に業を煮やした農地改革院(INCRA)が夜逃げ監視人を置き、移住者のパスポートを没収する異例の事態にまでなった。
 「心のすさんだ時期だった。思い通りにならない営農と人生のあせりもあったのだろう。寄合いがあれば、ピンガを飲み、必ず喧嘩があった。これが実社会かとびっくりした」と述懐する。
 大江さんは植民事業失敗の理由として「事前調査なしで入植させた」「耕地面積が少なく、雨期には家の中まで川水が入ってくる」「九〇%がマラリアの犠牲になったため」の三点を挙げる。
 入植開始から十七年も経った七二年、ようやく地権が公布された。〇九年五月現在でも十八家族が生活するが、元々の低湿地に残っている人はおらず、高台に移転し、米はあきらめ、ピメンタ栽培、養鶏、熱帯果樹栽培を行っている。
 現在、大江夫妻は近隣のサンタイザベル市の町中に住み、長男フェルナンドさんがグアマ日伯文化協会の会長を務める。
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 〇二年に大江さんを取材した作家の垣根涼介はサスペンス小説『ワイルド・ソウル』(幻冬舎、二〇〇三年)を書き、アマゾン移民の衛藤にこう言わせた。「ろくに現地調査も行わないまま現地政府といい加減な取り決めを交わし、蜜の誘い文句で移民者たちを未開の地に放り込んだあとは、知らぬ存ぜぬを決め込む。いったい中南米全体で、どれほどの人間が路頭に迷い、虚しく土くれと帰していったのかと思うと、眩暈(めまい)を通り越して吐き気さえ覚えた」(五二頁)。
 これはあくまでフィクションだが、当のアマゾン移民からは「良く書けている。違和感を覚えない」と評判が良い。
 もちろん、日本政府内にも警告を発する声はあった。国会図書館サイト「ブラジル移民の百年」によれば、一九一一年に在伯臨時代理公使の藤田敏郎氏は外務大臣小村寿太郎宛てで、ゴム景気にのって安易にアマゾン入植することへの注意勧告を、こう伝える。
 「公報(せいふのほうこく)に拠るに右護謨(ゴム)林地方にては瘧熱(まらりや)、黄熱、悪質脚気病(べりべり)、皮膚病其他種種の悪疫多く[、]他の地方より出稼する者は普通(たいがい)百人中七十五人は死亡する(中略)嘗てマデイラ、マモレー地方に赴きし独逸(ドイツ)移民六百余名中三百余名死亡したれば独逸政府は自後(そのご)同地方へ渡航するを禁止したる実例もあり」
 つまり、要注意であることは笠戸丸移民の頃から正確に把握しており、その上で戦後もグアマに入植させ、こうなった。マカコ事件でサンパウロ市知識人がした心配は、残念ながら杞憂(きゆう)に終わらなかった。(続く、深沢正雪記者)

写真=大江さんと妻とくえさん(75、山形県)。サンタイザベルの自宅で