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アマゾンを拓く=移住80年今昔=【ベレン・トメアスー編】=《13》=グアマ=シベリアよりはまし=「移民は日本人でない」

ニッケイ新聞 2009年9月11日付け

 「みんなグアマは酷かったとかいうけど、シベリアに比べればたいしたことはない」。呵々と笑い飛ばすのは谷口範之さん(84、広島県出身)=サンパウロ市在住=だ。
 終戦直前、シベリアで「わずか四日間の戦闘で連隊は半減した」という殲滅戦の後、貨物列車に詰め込まれて内モンゴルの極寒のラーゲリ(収容所)へ送られ、六百人の捕虜の一人として死線をさまよった。
 「生きるための最低カロリーさえ与えられない奴隷以下の待遇は、酷寒と強制労働によって衰弱に拍車をかけ次々に斃(たお)れて、九月から十月までの二カ月で死者八十一人を数えた」(『私のシベリア抑留記』四十八頁)。
 飢餓地獄で衰弱したところに発疹チブスが蔓延し、十一月と十二月だけで百六十二人が死んだ。つまり、ラーゲリに入ってわずか四カ月のうちに二百四十三人、全体の四割が死亡した。
 「灯りが見えるぞ。日本の灯りだ」。四六年十二月三十一日夜半、帰還船の甲板から叫び声が上がった。甲板を埋め尽くした帰還兵たちから、声にならない嗚咽が湧き上がり、谷口さんの頬をとめどなく涙がながれた。五百九日間にわたる抑留を終えたとき、入隊時に五十八キロあった体重は四十キロになっていた。
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 郷里で結婚し、すでに戦後第二回アマゾン移民としてアマパーでゴム栽培していた妻の両親の存在に引っぱられるように、十年後に谷口夫妻も北伯を目指した。
 谷口さんは明瞭に憶えている。県庁や神戸移民収容所での説明や契約には、こうあった。
 植民地当局は、移住者が到着するまでに、三ヘクタールから五ヘクタールの伐採と焼き払いをすませ、籾の播種ができる状態にしておく。各農場には二階建て、木造瓦葺きの住居を建築し、境界線毎に幅二メートル、深さ一・五メートルの排水溝を掘っておく。
 ところがベレン到着一週間前になって、移民船に「入植予定地の一部の買収が捗らなくて、伐採が大幅に遅れている」という連絡が入った。
 これが意味するのは、土地の買収がすんでいないから農場の割り振りも伐採も住居の建設もできていないことだ。要は、受け入れ準備は何一つできていなかった。かといって今さら引き返す訳にはいかない。
 第四次でグアマに入った。五歳児を頭に子供三人と夫妻の五人家族、つまり実質的な稼働労働力は谷口さん一人だった。
 子孫向けに書き、わずか数冊しか製本しなかった自分史『或るブラジル移民の歌』のグアマ時代の部分では、米の収穫が終わった五月末に、植民地本部で開かれた大運動会に参加した、興味深い逸話が書かれている。
 集まった人々の服装は、第一次、二次、三次、四次入植者の区別を極めて対照的に浮かびあがらせたという。
 四次入植者の服装は新しく清潔で日本同様だった。三次の人たちは清潔だが古びている、二次になると繕いが多くて明らかに見劣りする、一次になると裸足に半ズボン…。それを見て「ここで三年たったらカボクロになると思い飛び出す決断をした」と振り返る。
 一年分の米の収穫高はざっと百俵で、予想売価が二十コント。籾の収穫量は第四次五十家族中、五位にはいっていたが、諸経費を合わせると三十八コントになり、差し引き十八コントの赤字だ。
 計算すると、予定通りゴム、カカオを植え、稲の間作をしても、採算が取れるまでに最低七年かかる。「この地にとどまる限り、とことんまで落ち込んでいくことは明らかである。やがて過労で私も妻も病床に倒れるかも知れない。残された三人の子供たちの将来を想像すると体中に悪寒が走り抜けた」(五三頁)。
 谷口さんは「日本政府は、送り出した移民の救済手段を何一つ持たなかったばかりか救う意志さえなかった」と当時思った。シベリア抑留は戦争の一部であり、極限状況だから、ある意味、仕方ない部分がある。だが、アマゾン移民は国策の計画移住のはず。
 シベリアを体験した谷口さんをして「国外に移住した移民は、日本人であって日本人ではなかった」(同)と自分史に書かしめる経験であった。(続く、深沢正雪記者)

写真=「突然、野宿しろといわれてもなんともなかった」という谷口さん