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アマゾンを拓く=移住80年今昔=【ベレン・トメアスー編】=《6》=野球で青年奮い立たせる=万感の涙のみ、福原退陣

ニッケイ新聞 2009年9月1日付け

 苦難の時代にも娯楽はあった。いや、なければならなかった。トメアスーではそれが野球だ。
 『トメアスー開拓五十年史』によれば、サンパウロ州ノロエステ線のアリアンサ移住地の草創時代、弓場農場チームの名投手として鳴らした鎌田讃さんが同地に住むようになったことから野球は広まる。
 鎌田さんは一九三〇年八月、上塚司氏が組織したアマゾナス州調査団に参加し、パリンチンスに半年、モンテ・アレグレに二年、その後にアカラ殖民地に移り、野球の指導にまい進した。
 「当時アカラ植民地には悪性マラリアが猛威をふるい、退耕者が続出する動揺時代であった。そこで野球によって青年たちに積極性のある気塊を与え、無味乾燥な植民地に慰安を与えるべく戸田子郎、川越邦夫、佐藤忠準、沢田毅、沢田哲、関勝四郎、阿部昇などの中堅青年層の支持を得、吉田耕三支配人より野球道具の寄付を仰ぎ、半分は青年の負担としたのである」(『五十年史』)。
 その当時はマラリアが一番厳しいころだ。現在文協、伯銀などが立っている十字路の角地二十五ヘクタールを譲り受け、青年会一同が毎日曜日に労働奉仕して平地にならした。
 すでに皇后陛下よりの御下賜金五万円で青年会館が建設されていた。青年層を盛り立てることは、トメアスーの将来に投資することであった。
 「鎌田氏は、アカラ野球部に対してもスパルタ訓練をもって臨み、ヘマをやると容赦なくガツンとやられたもので、氏に殴られぬ選手は一人もいなかった、とは当時の選手たちの述懐である。選手とともに炎天下に汗を流した鎌田氏の愛情は、野球を通じて青年層や植民者の胸に流れ、開拓への逞しい意欲を与える原動力となった」(同『五十年史』)
 しかし鎌田氏自身もマラリアに罹り、さらに長女、次女を失うという悲劇に見舞われ、一九三八年には南下して弓場農場に戻ってしまった。
   ☆   ☆
 マラリアは、現代日本の感染症法に五分類される中でも四類に分類される疾患で、同類には日本脳炎、デング熱、A型肝炎などがあり、厳重注意が必要とされる。それに老いも若きもほぼ全員が罹患するような状況は、日本国内なら大変な騒ぎになっていたはずだ。退耕者が相次いだことを誰が責められるだろう。
 これを押して開拓事業を維持すること自体、改めて意味が問われる状況だった。これは南拓という会社の「事業」なのか、国家の威信を背負った「開拓」なのか。
 後者なら、利益の有無を越えた判断が必要とされるだろうが、それ相応の後方支援も必要なはず――そんな強烈な疑念が現場には充ち満ちていたに違いない。日常生活が闘いそのものだった。
 そんな中、初期の開拓方針である期待のカカオが結実せず、農業による振興に限界を見た福原社長は、鉱物資源の開発採掘という挽回策を練った。ところが、調査したところ輸送上の問題などで最終的には採掘不利との結論となり、起死回生の道も絶たれた。
 これは、日本側の重役間においては「運営上の根本問題」ととらえられ、無惨にも会社整理断交の方針が決められた。
 日本側は三五年には福原社長に代わる支配人を指名し、「社員の整理」「直営農場の閉鎖」「コロノ制度の解消」「農事試験場の閉鎖」など植民者の生活に関わる発表をした。鐘紡の武藤山治社長は「二十年先を期待」と言っていたはずだが、諸々の事情から最終的には「事業」として判断が下されたようだ。
 驚愕した植民者は「募集入植させた責任を問う」と重役を弾劾する集会を開き、責任を追及した。板挟みにあった福原社長は、植民者の要求通り私財一万円の慰謝金を出して辞職、帰国した。
 「植民地建設の壮図半ばにして万感の涙をのんで一線を退いた福原社長の胸中は察するに余りある」(『トメアスー七十年史』三十一頁)。
 みなが苦悩の中にいた。(続く、深沢正雪記者)

写真=福原八郎南拓社長