ニッケイ新聞 2009年8月29日付け
「中村さん、棺桶何個ありますか?」。日本人看護婦長が突然、南拓事務所に現れ、そう尋ねた。
『トメアスー開拓五十年史』には、南拓社員として第一回移民と共に開拓初期を過ごした中村浩三さんの、悲しい逸話が記されている。
悪性マラリアが移住地中に蔓延し、病院は連日患者でいっぱいになり、注射器を持って長い廊下を走り回る看護婦の白衣姿が、煌々とした灯りの下で夜目にもよく見えた。
中村さんは「大人子供用合わせて七、八個は船着き場の倉庫の奥に置いてある」と答えると、男勝りの婦長は「ダメダメ、もっとたくさん用意しておいて!」と怒鳴った。
中村さんは「イヤな思いがした」というが、ブラジル人の老大工に頼んで人目につかない森の中に仮小屋を建て、大小二十個の棺桶を作った。
積み重なる棺桶の山を見て、中村さんはさらに嫌な気持ちになり、「もうこれでよい。これ以上作るな!」と指示した。棺の山に椰子の葉をかけて隠し、「どうぞ使うことがありませんように」と心の中で祈ったという。
このようなマラリアが猖獗(しょうけつ)を極めた植民地を離脱すべく、この時期、退耕資金を捻出しようと、みなが暗い気持ちで〃苦い米〃を作っていた。ベレン近郊もしくは南伯(主にサンパウロ州)で新しい人生を切り開くためだった。
『トメアスー七十周年誌』の主力執筆者で歴史に詳しい角田修司さん(67、宮城県)は「脱耕シーズンは稲の刈り入れが終わる六~七月でした。土地はいっぱいあるし、米は全部会社が買ってくれる。だから働き手のある人はこの時期に陸稲を作り、それを収穫して籾を売って出ていった」と解説する。
しかし、沢田家は我慢して残った。「みんな退耕していった。残った者はさびしいですよ」と哲さんは振り返る。
退耕費用を捻出できない家族もいた。「残存家族が三十八家族にだけになったこともあるという惨憺たる数字を示している。結局、経済的に退耕、転住不可能な人々は、女、子供が多く、稼働能率の悪い人々であり、残留してアマゾン開拓の捨石となってアカラ植民地に骨を埋める決意をしたのである」(『トメアスー七十年史』)
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「ここには素晴らしい宝物があります。見てください」。角田さんが、そう言って持ってきたのは『アカラ植民地英霊録』という表紙がボロボロになった巻物だった。
一人目はアメーバ赤痢で二十一歳の若さで亡くなった石井島一さん、死亡日は二九年二月十九日。第一回入植日である九月二十二日の半年も前だから、受入れ準備に派遣された南拓先発隊員だ。「ビラ・アカラに於いて建築作業中、マンガを過食し生水を飲用後、粘血便を出し五日して死亡」とある。
生水飲用など今思えば無謀かもしれないが、南拓社員ですら衛生知識はそんなものだった。
同年に亡くなった六人中、彼ともう一人以外の四人は第一回移民が連れてきた幼子だ。二人目、新垣武ちゃん(享年1歳)は九月九日、ベレンに到着する前、船中にて百日咳性肺炎を発病し、二十日にベレンの移民宿泊所でトメアスーに出発する直前に亡くなった。
三人目の石毛澄子ちゃん(享年3歳)はトメアスー到着一カ月後の十月二十六日に疫痢で、四人目の神永照男ちゃん(享年2歳)は十一月九日に急性肺炎で、五人目の吉原トメ子ちゃん(享年一カ月)は生きていれば同地二世の先駆けだった。
一九三〇年には五人、三一年には十四人、三二年には二十五人と急増し、その半分以上は四歳以下。三三年は三十二人、三四年は二十七人…。
胡椒景気の最中、昭和三十年(一九五五年)に亡くなった二百八十七人目の二歳少女の病名までが詳細に記されている。アルバレス・マッシャード日本人墓地の過去帳に比する、移民史に残る貴重な史料といえる。
「この巻物には先輩たちの血と汗と涙が染みこんでいます」――角田さんは静かにそう言って、そっと目頭をおさえた。
アマゾンが「極楽」かどうかは別にして、皮肉なことに上塚司が紹介した通り、確かに「〃天国〃はさう遠くない」とはいえるようだ。(続く、深沢正雪記者)
写真=アカラ植民地英霊録