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カヌードスの乱は何故?=《2》=共和制国家への脅威拡大=避けられなかった武力衝突

ニッケイ新聞 2009年8月21日付け

 一八八九年に共和制宣言したばかりの政府や農場主は、バイア州奥地で急成長する宗教集団による法律や納税義務無視、共和制批判や君主制擁護、カヌードスに移る労働者増による労働力不足を見逃せなかった。
 また、コンセリェイロ信奉者が、教会や貯水池修復、洗礼や結婚奨励などを行いながら移動したことで影響力を奪われたカトリック教会も、彼らを警戒。一八九五年の神父によるカヌードス解散要請失敗で、武力衝突の緊張は更に高まった。
 武力衝突の発端は一八九六年十月。教会建設用木材を前払いで買ったのに、期日後も品が届かないことを不満に思うコンセリェイロ達が攻めてくるとの噂に慄くジュアゼイロの住民。
 その様子を見た地方裁判所判事の派兵要請を受けたバイア州知事は、政府軍の派遣も要請した。
 第一次遠征軍は十一月七日にジュアゼイロ到着後、十二日にカヌードスから約五〇キロの小村ウアウアに出発。気候などを知らず毛の服を着た一二〇人の兵士は、灼熱の太陽と喉の渇きに苦しみつつ一五〇キロ行軍し、十九日にウアウア到着。
 一方、カヌードスの信者らはファッコンや大鎌などを手に二十一日朝、遠征軍を急襲。数時間の交戦で一五〇人以上が死亡した信者側退去で、形式上は勝ったがカヌードスに攻め入る力を失った軍は、一〇人死亡、一六人負傷で事実上敗退した。
 その後直ちに編成された第二次遠征軍は五倍の人員に機関銃、大砲も備え、十二月二十九日にカヌードスから九〇キロのモンサント着。一月十二日には現地へ出発した。
 一方、迎え撃つ信者側は十八、十九日に地の利を活かしゲリラ攻撃。三回の攻撃で約四五〇人を失う命がけの戦いに、遠征軍も八人死亡、約六〇人負傷の被害を受け、敗走を余儀なくされた。
 二度の敗走後の第三次遠征軍は一三〇〇人。大砲や騎兵隊付きの小隊に分かれ、先鋒、後衛の別働隊を組んで出発した。
 二月八日にケイマードス到着後、二十日から一〇日を費やしてモンサントに着いた第三次軍は、三月二日にカヌードスを見下ろす高地から攻撃。
 しかし、激しい行軍に疲れ、隊長への不信で団結力を欠く遠征軍には、ゲリラ攻撃に対抗する術は無く、同日中に退去命令。追撃も受けた軍は、正副隊長も失い、壊滅状態で敗走した。(続く)