ニッケイ新聞 2009年7月28日付け
子孫に真実の歴史を残したい――そんな十五年ごしの思いが一冊の本に結晶した。戦後移住者の谷口範之さん(のりゆき、84、広島県出身)=サンパウロ市アクリマソン区在住=は先頃、『私のシベリア抑留記』(日毎叢書刊)という渾身の力作を自主刊行した。
「シベリアの経験がありましたから、ブラジルに来てから、突然野宿をするような状況になっても別段ひどいとも思いませんでしたね」。たんたんとそう語る裏には、あまりに悲惨な抑留体験があることは言うまでもない。
終戦半年前、三月に第百十九師団歩兵連隊機関銃中隊に入隊し、満州国の北西部・免渡河(めんとか)に。六月はじめ、伊列克得(いれくと)で半永久陣地の築城作業中にソ連軍が侵攻。「わずか四日間の戦闘で、連隊は半減した」(二十三頁)。
八月一八日にロシア軍に抑留され、「家畜のごとく」貨物列車に一晩詰め込まれて収容所(ラーゲリ)へ。そこからトラックで二日間もかけて南に向かった。太陽の方向で確認した。「少しは暖かくなるはず」との期待は見事に裏切られた。
「朝点呼で起きて、外に出たら、ウッと息ができない。あまりに空気が冷たくて」。食うや食わずで移動させられ、いきなり強制労働。ツルハシを地面に振り下ろすと、カンッという甲高い音と共に跳ね返された。地表は完全に凍結していた。
おかしい。南に向かったはずなのに。そんな疑問がようやく〃氷解〃したのは、一九九二年に墓参団として、引き揚げ、ブラジル移住を経て、現地を再訪した半世紀後だった。当時しるべくもなかったが、そこは標高三千メートルの内モンゴルだった。
抑留を終え、四七年一月、長崎県佐世保に着いたとき、入隊時に五十八キロあった体重は四十キロに減っていた。「飢餓線上をさまよい、音さえ凍る極寒と強制労働に耐え、灼けつくような望郷の思いに苛まれた抑留の日々であった」(百七十七頁)。
一九九二年に墓参団に参加して以来、五百九日間にわたる抑留生活の記憶を、十五年をかけて原稿用紙三百枚に写し取った。「とにかく生涯のうちでこれほど長く感じ、例えようのない絶望のうちに過ごした日々はなかった」と総括した。
抑留当時、深い因縁があった将校と、墓参団で再会した時のエピソードも興味深い。「よほど私の仕返しを恐れていたんだな」との言葉には、半世紀分の哀(あわ)れみが込められている。
「未だ凍土に埋もれたままの多くの兵士がいる事実を、一人でも多くの人たちに知って頂ければ、供養の一端につながるのでは」と書いた動機を説明した。