ニッケイ新聞 2009年7月23日付け
新田次郎は「八甲田死の彷徨」で日露戦争直前の大惨事だったー青森第8師団の中隊が壊滅の山岳雪中行進を描いている。あの明治35年の遭難は世界の山岳史に残る悲惨さであり、神成文吉大尉(小説では神田大尉)が率いる210名と山口鋠大隊長(小説では山田大隊長)の9名のうち199人が氷の柱にようになって凍死した▼原因は一つ。山の気象の怖さを知らなかったことである。勿論、兵らも防寒服を着た。だが、気象庁の技官だった新田次郎は、(現場は)零下20度に達し、弁当に持参した握り飯は石のように固まりとても食べられない。手を凍傷した兵らは尿をしようにも、ズボンの釦が外せないーと冷ややかに書く。猛烈な吹雪があり寒風が吹きまくる。積雪は2m近くもあって胸で掻き分けての歩行前進である▼食べ物がなく寒気に襲われ、眠るところもない。兵らは睡魔のため歩きながら眠る。これに疲労が重なり兵士や下士官らは次々に倒れ眠るかのように黄泉へと旅立つ。このような自然の脅威と厳しさに人はとても勝てない。あの大雪山系の登山客10人が悪天候で犠牲になったのも、山の恐ろしさである▼登山家らは「北海道の山は危険が多い。準備不足」と指摘する。しかも、事故のあったパーテイは中高年であり、企画した旅行社の責任は重い。添乗員も大雪山に登ったのは1人だった(しかも1回だけ)し、これは、なんとも心細い。昨年の山岳遭難での死者は281人、このうち5割超が60歳以上、死者と行方不明者の90%が40代を超している事実にも、もっと目を向けてほしい。 (遯)