ニッケイ新聞 2009年7月22日付け
第一回アマゾン移民の山田元さん(82、広島)の講演会『トメアスーに生きる』が、二十日夜、サンパウロ市リベルダーデ区の文協貴賓室であった。立ち見が出るほどの盛況ぶりを見せ、約二百人が貴重な初期アマゾンの開拓の証言に耳を傾けた。今年のアマゾン日本人入植八十周年を記念し、広島県人会(大西博巳会長)とニッケイ新聞社(高木ラウル社長)が共催した。ベレン総領事館、文協、援協、県連、サンパウロ人文科学研究所、ブラジル・ニッポン移住者協会、コチア青年連絡協議会、ブラジルを知る会の後援、レアル銀行の協賛。
山田さんは第一回南拓移民として、二歳のとき、両親の義一、スエノ、姉三江さん(7)の四人でトメアスー(旧アカラー)移住地に入植。第一回アマゾン移民として今でも現地に住みつづける、たった二人のうちの一人だ。
講演前、山田一家が主人公として描かれた『アマゾンの歌~日本人の記録』(角田房子著)のドラマ映画の一部が上映され、来場者らは真剣な眼差しで見入った。
続いて、高木社長、木多喜八郎文協会長が開会のあいさつ。清水オリジオ・レアル銀行取締役は、「私は移民の子。父は二三年、山田さんと同じ広島から来た。映画を見て苦労がひしひしと伝わって胸が熱くなった」と感極まった様子。「遠くから来てくれて、ありがとうと言いたい」と感謝の言葉を送った。
大きな拍手を浴びて山田さんが壇上へ。「非常に光栄で身に余る思い」。深く頭を下げる姿に再度、拍手が沸き起こった。
トメアスーの古い写真を見ながら堀江剛史・本紙記者が質問し、山田さんが答えるという形式で講演が始まった。
渡伯前の家族写真を見て「こうして母に抱かれて来ました」とはにかみ、「とにかく働き詰めだった母の背中にくくりつけられて育ったから、母の体に沿って自然と足が曲がってしまった」。幼少の頃の記憶はないが、山田さんの体が開拓移民の苦労を物語る。
「家族全員が罹り、生きているのが不思議」と移住地を襲ったマラリア禍にも触れた。当時の特効薬キニーネの多量摂取による〃赤ションベン〃(黒熱病)で、「三、四〇年代半ばは、バタバタ死んだ」との証言に会場は静まり返った。
十三歳でジャングルに入り、精米のために建てた水車小屋で十年過ごした。当時、妻豊江さんが身ごもった長男、次男を取り上げたエピソードでは、「へその緒を処理して、トマ・バーニョさせて…まあ何とか格好つけました」と会場を笑わせた。
七、八〇年代には、トメアスー農協理事長、市議も一期務めた。ピメンタブームに沸く移住地の様子も語った。
その記憶力とその律儀で真面目な喋り口調に来場者は、小一時間じっくりと耳を傾けた。
講演後、大西会長と高木社長から記念プラッカが贈られた。与儀昭雄県連会長の発声で、トメアスー農協提供のグラヴィオーラで作ったバチーダで乾杯、「ブラジルを知る会」(清水裕美代表)手作り料理のカクテルパーティーが開かれた。
真剣な表情で聞いていた村本清美さん(51)は、「苦労されたのにそんな様子を全く見せない。本当に貴重な話を聞かせてもらえた」と感慨深げ。
戦後移民の益田照夫さん(67)は、「金の苦労はしたけど、山田さんのような生死の苦労はしてない。そんなの苦労と言えないね」と苦笑い。
ブラジル日本交流協会生で山田さん出身の広島で育った日系三世、古賀アンドレアさん(22)は、「移民だった祖母が山田さんと同じ広島出身。胸が熱くなった」と語った。
講演を終えた山田さんは、来場者の笑顔の輪に包まれながら、「移民して八十年、感無量の一言に尽きます。父母が苦労した歴史は継承して欲しい」と穏やかな表情で語った。