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ラジオがコロニア結んだ時代=元アナウンサーの石崎さん=人文研講演で最盛期語る

ニッケイ新聞 2009年7月14日付け

 サンパウロ人文科学研究所(人文研、田中洋典所長)主催の講演会「コロニア今昔物語」が六月三十日夜、文協ビル会議室で開かれた。第一回目となる今回のテーマは「日本語放送と映画の思い出」。元日本語ラジオアナウンサーの石崎矩之さん(74)が講師を務め、自身の経験を交えながら戦後のラジオ最盛期を振り返った。
 石崎さんは熊本県出身。軍人だった父親が公職追放を受けるなど、戦後の厳しい生活の中、高校在学中の一九五四年に家族五人でアマゾナス州マナカプルー植民地(現ベラ・ビスタ移住地)へ移住した。
 戦後の第二回アマゾン移民。しかし現実は、渡伯前の宣伝とは大きく異なるものだった。入植から一年五カ月後、同地を訪れた作家大宅荘一に同行した「三浦氏」の紹介状を手にサンパウロへ。そこでラジオ・クルツーラの日本語番組製作を担当していた会社で働き始めた。
 当時の日本語番組は番組枠を買う形で放送されており、カーザ水本を経営する水下毅・元リベルダーデ商工会長などもスポンサーだったそうだ。石崎さんは入社早々、サンジョアン街の同局で番組を任されたという。
 講演には、割れやすく貴重品だった当時のレコードや録音のテープなどを持参し、写真を映しながら当時の仕事やアナウンサーの先輩のことなども紹介。
 ニュースやコマーシャル、レコード紹介。公開番組やスタジオでの喉自慢、「野球の〃ヤ〃の字も知らないのに」野球中継もやった。ラジオ小説で「七人の侍」を放送した時には、「一人で何役もやりましたよ」。
 コンゴーニャス空港で日本人スチュワーデスを取材した時には、デンスケと呼ばれる携帯録音機が「重くて苦労した」と振り返る。佐藤常蔵、古野菊生らにブラジルの歴史解説を頼んだことなど、思い出は尽きない。
 二年後の五七年、石崎さんは初の日本語ラジオ局として奥原康栄氏らが設立、リベルダーデ広場向かいにあったラジオ・サントアマーロ(プブリブラス放送)へ移籍した。
 そこでは夜の番組を受け持つ傍ら、力道山のプロレス興業が来伯した時にはイビラプエラ体育館で毎晩中継を担当。また、シネ・ニテロイで映画「丹下左膳」が上映された時は、以前に大河内伝次郎主演で作られた同作に出演、当時リベルダーデに住んでいた女優の伏見直江さんとの座談会を行なったという。
 折しも、石崎さんがラジオの仕事に携わった五五年から六一年頃までが、戦後コロニアの日本語ラジオ最盛期。農業従事者や都市部での洗染業者など、仕事をしながら聞ける日本語ラジオの存在は大きなものだった。都市部だけでなく、短波でサンパウロ州奥地ほか、ほぼ全国で聴けたという。
 しかし軍政下の六四年、外国語での放送を禁止する法令が発布、テレビの発達もあり、日本語ラジオの最盛期は過ぎ去った。
 講演当日は、平日夜にも関わらず二十人ほどが来場。先輩アナウンサーだった井出香哉さんも訪れ、昔の様子を語る石崎さんの言葉に懐かしそうな表情を見せていた。
 最後には、サントアマーロで放送終了時に流していた音楽をかけ、「みなさんおやすみなさい」と石崎さん。日本語ラジオがコロニアをつないだ時代を思い出させるような台詞で一時間半の講演を終了した。