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アマゾンを拓く=移住80年今昔=【パリンチンス/ヴィラ・アマゾニア編】=《6》=戦争が引き裂いた夢=潰えた植民地計画

ニッケイ新聞 2009年7月11日付け

 ジュート栽培は過熱の一途を辿った。高拓生もマナウスから下流のサンタレンまで約千キロに広がり、現地人を指導し、生産に励んだ。
 一九三九年に第二次世界大戦が勃発、ヨーロッパを経由するインドからのジュート輸入が困難となったことも追い風となり、値段は高騰した。
 現地支配人だった辻小太郎は旺盛に事業拡張を図り、アマゾン流域に八支店、約三十の代理店も開く。日本に一時帰国した際、〃高拓生花嫁〃を募り、アマゾンに連れてきてもいる。
 収穫されたジュートは一級品の格がつけられ、一年作物でありながら、純利益が半分という高利益率も注目を集めた。
 ブラジル政府も手をこまねいていたアマゾンの発展を予感させる〃福音〃は、全伯に知れ渡り、通信社から日本にも伝えられている。
 生産量は年々膨れ上がり、千百トンにまで達した一九四一年末、日本が真珠湾を攻撃、太平洋戦争に突入する。
 この知らせを受けた上塚司は、十二月十二日付『アマゾニア産業研究所月報』で「―わが社はブラジル法人であり、ジュート産業はブラジルにとって緊要な国家的産業である。その発展には日本人の智恵と技術と資本が必要なため、この事業を死滅させるような経済的圧力はないと思われる」と書いている。しかし、これが最後の発行となった。
 翌四二年一月、ブラジルは日本と国交を断絶。
 この知らせを聞いた辻は、すぐさま銀行の資産を引き出し保管することに加え、アマゾニア産業株式会社の解散を主張する。
 破竹の勢いで成長するジュート産業の明るい将来、神州日本の勝利を信じて疑わない会社幹部と血気盛んな高拓生らは、真っ向から反対した。製麻工場の建築計画がすでに進んでいたこともあった。
 その渦中にいた当時二十二歳の尾山多門氏はその様子を回顧する。
 「辻さんは『短期で日本が負ける。とりあえず、ブラジル人の知り合いに預けよう』って。景気の前は『ここは住むところじゃない』とか言って、仕事もせずに酒を飲んでいた高拓生らも元気いいでしょう。『そんなことはない』って頑張ってね」
 議論は並行線を辿り、辻は家族を連れ、ヴィラ・アマゾニアを去り、サンタレン方面に移る。
 辻の言う通り、アマゾニア産業は、敵性資産として没収され、銀行口座も凍結された。
 同年八月にベレン沖でブラジル商船がドイツの潜水艦に撃沈される事件も起きたことから、アマゾンの日本人らは受難の時代を迎える。
 「八人の幹部家族がアカラー(現トメアスー)のプレッゾ(監獄)にぶち込まれたんですよ」(多門さん)
 アマゾニア産業は、戦後に競売にかけられ、「地元企業ジョタ・アラウージョ商会に七百コントで買われた」(同)という。
 上塚が一九三〇年から思い描いた理想郷建設の夢は完全に潰えた。
 一九五二年、辻はゼツリオ・ヴァルガス大統領に願い出て、日本資本によるサンタレン製麻会社設立を理由に、五千家族の移住受け入れを確約させ、戦後移住の先鞭をつけている。
 しかし、五九年には製麻会社は契約不履行を理由に、日本側の上塚、辻を除外。高拓生らは戦後もジュート栽培を続けたが、次第にちりぢりになっていく。
 (つづく、堀江剛史記者)

写真=ジュートを発見した尾山良太。1933年渡伯時のパスポートから