2009年6月27日付け
ブラジルで暮らしたのはわずかに三年だけだったが、その間に日系三世と結婚した。
妻の祖父が戦前、一度だけ日本に帰国していたが、祖父以外に移住後、日本の土を踏んだ者は家族にも親戚にもいない。それが、入管法が改正され妻の弟、甥、いとこたちが大挙して日本にやってきた。
目標の金を貯めて帰国した者もいれば、世界同時不況のあおりで帰国した者もいる。まだ日本に残り、働いている者もいる。デカセギを取り巻く環境、問題は簡単に言ってしまえば、日本社会のいびつさとデカセギ日系人の持つ不確かさが相まって生み出されているような気がする。
これまでの連載で「差別」「いじめ」という言葉ですでに語られているように、日本の抱える問題については改めてここでは繰り返す必要もないと思う。唐突と思われるかもしれないが、「混」という漢字を用いた熟語を想像してみてほしい。「混乱」「混雑」「混迷」「混沌」と混じることは乱れ、雑になり、迷うことでもある。
こういった異分子を排斥する日本の風土の中に、多民族国家ブラジルで育った日系人が入ってきたのである。労働力不足の状態が続いている時代なら重宝がられたが、怒涛のように押し寄せる派遣切りの波に真っ先にさらされたのが日系人だったというのは、ある意味、必然的だったかもしれない。
それに対して、三山喬氏が指摘しているように、日系人は組織的に対抗するすべを二十年近く構築してこなかった。それが世界同時不況によって、デカセギ日系人の持つ問題が噴き出した形になったのだろう。日系人は短期間、あるいは中期間日本に滞在し、金を稼ぐことを主目的にしていたため、今回の派遣切りや子弟の教育問題に象徴されるように、デカセギ日系人は長期的なヴィジョンを持ち得なかったし、対応に出遅れてしまった。
しかし、世界には、果たして永住を決意して移住した移民はいるのだろうか。亡命者や戦争から逃れるために故国を離れた難民でもない限り、祖国を捨てる覚悟で移民した人たちは少ないのではないか。
だからといって日本に出稼ぎに行けば夢が数年でかなうと安易に考え、子弟の教育に無関心な一部の日系人の姿には疑問を感じざるを得ない。自分たちの祖先やあるいは自分たち自身が辿ってきた道を子供たちに繰り返させているからだ。戦前生まれの二世は一世と運命を共にしなければならなかった。妻の父親は二世で、日本語もポルトガル語を話すが、両方とも十分な読み書きができなかった。学ぶ機会を奪われてきたからだ。
そんな歴史を持つ日系ブラジル人だからこそ、様々な事情で日本に出稼ぎにきたとしても、子弟の教育には敏感になるべきではなかったかと思う。
しかし、デカセギ日系人が必ずしも子弟教育に無関心とは言えない。群馬県太田市に住むある女性は、二歳の時に親に連れられてリベイロン・プレットから来日した。ブラジルに帰国したのはこれまでに数回。彼女は日本の高校を卒業し、今春から大学生になった。日本語もポルトガル語も話すいわゆるバイリンガルだ。「私は日本に住むブラジル人です。二つの文化を持っていることを誇りに思う」
と取材の時に語ってくれた。
今は少数であってもこうした日系人がリーダーとして数年後に頭角を現してくると、私は信じている。
一方、日本も大きな選択を迫られている。説明するまでもなく、ヨーロッパでも、アメリカでも移民に対する風当たりは強くなっている。日本は日系人とともに生きる道を選ぶのか、あるいは排斥の道を行くのか。
「混」という漢字について前述したが、「純」という漢字を用いた熟語を思い浮かべてほしい。「純粋」「純潔」「純情」ときれいなイメージの言葉が多い。
日本人、日系人双方に矛盾や問題点はあるが、それを乗り越えた時に、日本は多文化共生の真に国際的な国家に成長するような気がする。
日系ブラジル人が日本に存在する意味は、在日韓国・朝鮮人でもなく、あるいはニューカマーの韓国人、中国人、フィリピン人でもなく、日系ブラジル人であるがゆえに大きな存在意義あるように感じられる。
デキセキ日系人にとって、この不況はまさに試練の時なのかもしれない。この試練を経て、デカセギ日系人は在日日系人としての地位を築いていくように思える。
高橋幸春(たかはし・ゆきはる)
ノンフィクション作家。1950年埼玉県生まれ、早稲田大学文学部卒。75年から3年間パウリスタ新聞(本紙の前身)で記者として勤務。帰国後、ブラジル移民を描いた「蒼氓の大地」で講談社ノンフィクション賞を受賞。「麻野涼」の名で小説も執筆している。ブラジルの勝ち負け問題を扱った「天皇の船」など移民関係の著書多数。