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ADESC婦人、ボリビアへ=連載(3)=日本国外唯一の〃オキナワ〃=今年で入植55周年

 訪問旅行の一行が乗るバスは、二十二席しかない小型バス。二十三人のうち、いつも誰かが座れない。しかし、それでもボリビアでは一番いいバスを借りたのだとか。
 オキナワ第一移住地で、ADESCは三グループに分かれて滞在した。四人がオキナワ日本ボリビア協会会館、六人が同地友好病院、残り十三人は同地の小さなホテルへ。
 オキナワ第一移住地はサンタクルス市内から約九十五キロメートル離れたところに位置する。バスで約二時間の旅。第二移住地はそこから約二十キロ、第三移住地は約三十六キロ離れている。
 同移住地の歴史は、一九五四年に当時米国統治下だった沖縄県から日本人が移り住んだことに始まる。ボリビア政府の許可のもと、琉球政府、琉球列島米国民政府が共同で募集した「琉球政府計画移民」だ。
 最初に入植したのは、現在の第一移住地から約十キロに位置する「うるま移住地」。水害と「うるま病」と呼ばれる原因不明の疫病により移転を余儀なくされ、移転したパロメティーリャ(移住地から約八十キロ地点)でも再度移転を強いられる苦難を味わった。
 その後、ようやく現在のオキナワ第一移住地に落ち着き、後に第二、第三の三つの移住地に入植が進んだ。五四年の第一陣から六五年の第十九陣まで続き、計五百八十四家族、三千三百八十五人の沖縄出身者が移住した。
 八〇年代には日本へのデカセギブームが起き、移住地の日本人と日系人の人口は減少。九〇年代に大規模農業が定着し移住地の経済が飛躍的に成長すると、著しい人口移動は見られなくなった。
 二〇〇〇年に自治体として自治権を獲得。行政区としてオキナワの名が冠されるのは、世界中で沖縄県とコロニア・オキナワだけだそうだ。現在の人口は八百七十人前後。
 オキナワ日本ボリビア協会は、ボリビア政府に認可された社団法人。移住地の行政機能を担う。主な事業に移住地内の治安維持活動、国内外の各種団体との渉外、診療部の運営、健康保険組合事業などがある。
 第一移住地は、今年入植五十五周年を迎える。〇四年の入植五十周年には、記念事業として移民資料館と慰霊塔を建設した。沖縄県やJICA、個人からも出資があったという。
 同日午後七時から、同協会会館で同協会、コロニア沖縄農牧総合共同組合(CAICO)共催によるADESC歓迎夕食会が催された。堂々と「ブラジル農協婦人部連合会」と書かれた大きな垂れ幕が一行を迎えた。
 まずは、ADESC受け入れ委員会実行委員長を務める熱田恵美子さんがあいさつ。「三年前ブラジルへいって温かく受け入れてもらえたこと、空港で再会できたことが本当に嬉しかった」と笑顔で話した。
 熱田さんは、〇七年度農協婦人セミナーに参加。同会委員長として同地連合婦人会にも協力を呼びかけていたそうだ。
 比嘉武浩CAICO組合長は「同地をよく知っていってもらいたい。そして、母の日おめでとうございます」と一行を歓迎。
 日ボ協会宮城和男会長は「両国婦人たちの活発さに感心している。今後交流事業のますますの発展を図りたい」と述べた。
 ADESCからは「雨降って地が固まったように、(ボリビアで)我々の友情も深まりましたね」という言葉も。同地からは、百十人もの人が集まり、約百三十人で乾杯した。
 同地のJICAシニアボランティアの宮城幸子さんは「ブラジルの農協婦人セミナーに参加した人たちは、ADESCの影響を強く受けて帰ってきたのよ」と話す。
 同地でも、ADESCのように農協婦人会を作りたいという声があがっているほどだという。
 沖縄料理を楽しんだ後、ボリビアの民族舞踊が披露された。ADESCの中にも衣装を着て参加する人が。青年部によって沖縄の郷土芸能も披露され、婦人たち皆が席を立って踊りに参加した。
 ADESC一行もリラックスした表情。「もう一曲!」とアンコールのかけ声が響くほど。交流会は盛り上がり、九時半頃まで続いた。
 近隣の民家でも夜遅くまで賑やかに音楽が鳴りつづけ、ホテルまで静かに響いていた。(つづく、長村裕佳子記者)

写真=(上)ADESC一行/交流会の様子