ニッケイ新聞 2009年6月10日付け
【共同】サッカーの日本代表が四大会連続でワールドカップ(W杯)出場を決めた六日のウズベキスタン戦で原動力となった日系三世の田中マルクス闘莉王選手。この日、同選手の生まれ故郷サンパウロ州パルメイラ・ドエスチでは、テレビ中継を見守った祖母が仏壇に手を合わせて感涙にむせび、知人らは「わたしたちの誇り」と胸を張った。人口約九千人の小さな町には喜びと安堵が広がった。
「パパイ、闘莉王が頑張ってくれましたよ」
祖母で一世の田中照子さん(81)は四月に九十一歳で亡くなった祖父義行さんの位牌にじっと手を合わせた。遺影のわきには闘莉王選手の写真が二枚。「W杯は長年の夢。けがだけはしないように」と毎日祈ってきた。
代表選考に漏れた二〇〇六年のW杯ドイツ大会、そして昨年末の左ひざの手術。療養も兼ねて年末年始に帰省した同選手の姿からは「弱音を吐かない子が、今までになく気落ちしていた」と感じた。「(調子は)今のところ駄目だ。早く治さないと。合宿も始まるし…」と焦っていたという。
闘莉王選手は「じいちゃんの生まれ故郷だから」と、Jリーグの最初の所属チームにサンフレッチェ広島を選んだ。「祖父が急死した時は所属チームの大事な試合が迫っていた。気落ちさせたくなかった」と照子さん。孫には訃報を隠していたという。
この日は、闘莉王選手の伯父にあたる長男が三十八年前に亡くなった命日とも重なった。「家族全員の思いが通じた」と目頭を押さえた。
照子さんと一緒にテレビの前で声援を送った父パウロさん(56)も「闘莉王は日本によく順応した。今ではブラジル人よりも日本人というべきだ」としみじみと話した。
パルメイラ・ドエスチは果物栽培や牧畜が盛んで、緑の芝生が鮮やかなサッカー場が町中に点在する。闘莉王選手が七歳のころ、初めてコーチしたカルロス・シルバ氏(52)は「子供のころからボールを扱う能力がずばぬけていた。ブラジルでも彼のような攻撃型ディフェンダーはいない」と絶賛する。
二十年近く前に闘莉王選手が駆け回ったピッチで練習試合をしていたビニシウス・パシェコ君(13)は「ここでプレーを始めた彼が今ではW杯の一流選手。彼は僕のお手本さ」と言葉を弾ませた。(サンパウロ共同=名波正晴)