ニッケイ新聞 2009年6月2日付け
「黄金の扉の傍らに、私は灯火を掲げましょう」。米国入移民の全盛期である一八八五年にニューヨーク港の入り口に建てられた自由の女神像の台座には、新天地に向かって渡ってくる移民への歓迎のシンボルとして、そう刻まれている。だが、日本移民はそこに含まれていなかった。
アメリカでは、日本人や中国人移民は産業界からは安価な労働者として必要とされた一方、主流たる白人系民族集団からの反発も強かった。その結果、「帰化不能外国人」規定が設けられ、激しい排斥運動、差別立法で排除しようとする動きも強かった。
ブラジル同様、米国の日本移民も農業分野で秀でた実績を挙げていたが、日本移民は帰化不能で市民権を得る資格がなく、それをねらい打ちしたような、帰化不能外国人の土地購入を禁止する土地法が一九一三年にカリフォルニア議会を通過し、一九二〇年には日本人の借地権まで奪うような法律まで幾つかの州で制定された。
つまり、アジア系を「国民」として受け入れたくないという明確な方針が出されていた。
移民導入の最盛期だった十九世紀後半から二十世紀前半は、受入れ国にとっては同時に「国家形成期」であり、「国民アイデンティティの創出期」でもあった。どのような移民を理想的な「国民」として定義し、導入するかを政治的に決定する時期だった。
昨年七月の連載「移民と『日本精神』・遠隔地ナショナリズム」で解説したように、この時期は日本にとってもアイデンティティ形成期だった。江戸時代には村や藩という意識しかなかった一般人に対し、明治時代には「日本」という国家意識を国民に植え付け、「日本人」意識を形成する重要な時期だった。
北米の日本人排斥の流れにくわえ、北海道が満杯となったという状況のなかで、ブラジルへの送り出しがようやく開始・本格化された。
日本移民が笠戸丸に乗って来たのは、そのような時であり、ブラジルにとっては入移民の最盛期の最後だった。以来、戦後に至るまでの長い間、日本にとってブラジルが最大の送り出し先(満州をのぞく)となった。
ブラジルでも十九世紀から「ブランキアメント」(白人化政策)が取られ、イタリア系を中心とする白人種が中心となって導入されたが、受入れ体制の悪さからイタリア政府が送り出しを禁止したことが、日本移民の受入につながったのは、百周年の昨年には大学受験問題に出題されたぐらい有名な話だ。
もちろん、ブラジルでも米国の動きを緊密に注視し、連動する一部のエリート層からは、同じような黄禍論が唱えられたこともあった。
だがブラジルの政策の特徴は、たとえ決まったとしても実施とは同意義ではない点にある。事実上の日本移民制限令が発令されても、それが厳密に運用されず、結局は農業界の要請に応じて、どんどん導入された。
新教思想の米国は法運用に厳格であり、ブラジルのカトリック思想との違いは、移民の歴史にも大きな影響を与えた。
より良き生活を求めて文化圏を越境する体験を繰り返す中で育まれたのが西洋文明であり、ブラジル文化の基調となっているポルトガル文化も、その一つだ。
新大陸では、元々あった先住民社会が大規模に破壊され、旧大陸(欧州)のコピーが〃創造〃し直された。この認識は、我々がどんな場所に住んでいるかを理解する上での基本だ。
「このラテンアメリカは、ヨーロッパ世界の拡張によって『誕生』し、形成された世界である」(『近代ヨーロッパの探求(1)移民』二八八頁)。特にブラジルにおいては、ポルトガルが自らの文化を移植した。「都市の形態から機能および生活様式に至るまで、イベリア世界が移植されたのである」(同二九頁)。
一八二四年から一九二四年の百年間にラ米に移住したヨーロッパ移民は一一〇〇万人で、うち三六%がブラジルに入った。大量移住の要因の一つは、「宗教(カトリック)と言語の類似性による生活環境への親近性である」(同二九九頁)という結果を招いた。
つまり、欧州移民がした異文化適応の苦労と、日本移民のそれとは根本的な差があった。西洋人は同じ文明圏の中を移動したに過ぎない。だが日本移民の先人たちは、まったく未知の文明に直面したのだった。(つづく、深沢正雪記者)