ニッケイ新聞 2009年5月28日付け
聖郊タボン・ダ・セーラ市の州立フジオ・タチバナ小学校の校名が十三年ぶりに以前の「日伯小学校」の名称に戻り、二十三日、同校で記念式典が挙行された。州立校としてはおそらくブラジルで唯一、「日伯」の名を冠した同校。式典では生徒や地元日系団体などによる出し物も披露され、関係者らは喜びを新たにした。
同校は隣接するタボン体育文化協会が一万八千平方メートルの敷地のうち四千平方メートルを州に寄付し、一九七一年に開校。当時のラウド・ナテル知事により、地元日系社会への顕彰を込め「日伯」と命名された。
その前身となる学校は三二年に設立された同文協(当時・タボン農會)の創立者たちが地域の子弟教育のため建設したもの。皇室からの下賜金も受けたという。
同会の敷地内にあった校舎では、戦中も途切れることなく教育が続けられ、日系非日系を問わず地域の子供たち、ピラジュサーラ、サントアマーロなど近隣地区からも生徒が通ったという。現在までの卒業生は約三万二千人に上る。
九六年、故小林パウロ連邦下議(当時州議)の提案、当時の学校関係者などによる署名運動により、同校の名は旧南米銀行会長の故橘富士雄氏の名を冠した「フジオ・タチバナ学校」に改称。約十年が過ぎた〇六年、同文協創立者の子孫たちが中心となって校名復活の運動が始まった。弁護士の増田稔氏(元連邦下議)の協力を得て運動は進み、州議会で昨年十二月に校名改称の法案が可決された。
式典当日、「E.E.Nipo Brasleira」の名が新たに記された同校では、生徒や父兄、教師をはじめ、州・市の代表、地域住民と同文協関係者、運動に携わってきた関係者など数百人が会場の中庭を埋めた。
州南部地域二百六十校を担当するサンドバル・カバルカンチ州教育局管理官が州政府を代表して出席。関係者への祝意とともに、「子弟教育は根源的で普遍的なもの」と強調、今後の子弟教育継続へ期待を表わした。
続いて日伯両国、サンパウロ州の旗を先頭に生徒たちが並び、両国歌を斉唱。その後も生徒たちによる群舞や、ブラジル各州をイメージした衣装で「アクアレラ・ド・ブラジル」に合わせた踊り、楽器演奏などが次々と発表された。子供たちが輪になって「炭坑節」を踊る趣向も。
同文協婦人部による踊りやパウリスタ剣道連盟、同相撲連盟の協力によるデモンストレーションもあり、正午過ぎまで賑わいを見せた。
十三年ぶりに名付けられた「日伯」の名前。同校のホリ・ヨシタケ・テレジーニャ校長(63、三世)は、「一人だけでなく、より多くの人を顕彰する名前。より良くなったと思います」と感想を語る。
この日はタボン農會創立者で初代会長を務めた故守屋敬太郎氏の息子・香苗氏(故人)の夫人、守屋保尾さん(84)も訪れていた。義父たちの教育への情熱を象徴する旧校名の復活に「感激です」と感無量の表情を見せ、「祖父も苦労しましたが、この日を迎える事ができ、私も生きていて良かった」と話していた。
「これからが第一歩」=関係者ら思い新たに
式典後はタボン文協の会館で懇親昼食会が開かれ、光谷カルロス文協会長や関係者たちが互いの苦労を労い、あらためて増田弁護士の尽力に感謝を表わした。
タボン農會が登記された当時までさかのぼって同校の歴史を調査、運動の実現に尽力した増田さん。あいさつで「この学校は寄付ではなく、州政府と日系人が共同で建てたもの。創立者の精神が子や孫に伝わり、皆の精神が一致していたからこそ実現できた」と強調し、「これで第一歩が踏み出せた。これからが楽しみです」と述べた。
前会長として復活運動に携わった有明正一さんは、校名が変わった九六年当時の会長。あいさつで十三年にわたって持ちつづけた校名復活への思いを語っていた有明さんは、「やっと先輩に責任を果たせたという思い。肩の荷が下りた」と笑顔を見せる。
長年文協会長をつとめた故宮路美義氏が叔父にあたる宮路アリッセさん(75)は、三年前に運動を始めた一人。「最初は会員の反対もありましたが、続けてきて結果が出た。嬉しく思っています」と喜びを表わした。
宮路さんが運動を始めた当時から知る中村幸男ピラジュサーラ文協会長(71)はサントアマーロで生まれ、四八年から同校に通ったという。「当時の生徒は日系ばかりでしたね」と振り返り、日系全体を顕彰する旧名に戻ったことに満足した様子だった。