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次の百年戦略のために=~日系社会とは何か~=第1部《世界史の視点から》=(3)=ナポレオンと黒船来航=世界の資本主義化の流れ

ニッケイ新聞 2009年5月28日付け

 ブラジルを世界の資本主義経済の歯車に組み込む意味でも、ナポレオンは重要な役割を果たした。
 一八〇七年一一月、ナポレオンはポルトガルに軍隊を侵入させた。皇太子ドン・ジョアンは同一一月末、王族・貴族・高官等とその家族一万五〇〇〇人を率い、フランス軍がリスボンに侵入する前日、一六隻の船でブラジルへ逃げた。
 翌一八〇八年三月、首都をリオにおき、「王室は万が一の場合、ブラジルをポルトガルの本国にするようになるかもしれないという考慮から、従来の植民地的覊絆(きはん)をことごとく解いて、独立国として発展できる処置をとることにした。…三〇〇年間も外国に対して閉鎖していた港を友邦諸国に開放して自由貿易するとともに、一七八五年以来禁止していた各種の工業を自由にし…、そして国土開発を促進するために、一八〇八年一一月、外国移民の入国と土地の所有を許可した」(『ブラジル史』アンドウ・ゼンパチ著、岩波書店、一九八三年、一五三頁)
 以来、ブラジルが大規模な移民受入れをしていたのは、一八二〇年から一九七二年までの間だ。
 日本がまだ江戸時代だった一八二〇年から開国直後の一八七六年の間だけをみても、イタリア人は一万六五六二人、スペイン人は二九〇一人、ポルトガル人に至っては、一六万〇一一九人渡伯しているが、この時代はまだ序の口だ。
 一八八八年に出された奴隷解放宣言により、大量に必要になったコロノ(農業労働者)として外国人移民が導入された経緯があり、受入れ最盛期だったのは一八八七年から一九一四年だ。
 この最盛期の二七年間だけで、全入伯移民五百六十万人のうちの過半数、二百七十四万人を受け入れた。
 この時代が最盛期だったのは、ブラジルだけではない。当時、最も多くの移住者を受け入れた米国も同じだった。
 「…一八二〇年からの約一五〇年間に、四二〇〇万人余の移民がアメリカに入国したが、その三分の一近くが一八九〇年代および一九〇〇年代の二〇年間に入国している」(『エスニック・アメリカ』明石紀雄・飯野正子著、二〇〇二年、有斐閣選書、一一八頁)とあるから、なんと一四〇〇万人近くであり、ブラジルとは桁が違う。
 この最盛期の最初段階、一八九〇年の時点でニューヨークは「世界最大の都市であると同時に、ハンブルクと同じほどのドイツ人、ワルシャワのユダヤ人人口の二倍半のユダヤ人が住む都市」だった(同一一九頁)。その後、最盛期となった訳だから、当時の入移民の流れはとてつもない規模のものだった。
 なぜ米国はそんなにも移民を必要としたのか。一九世紀は米国が農業国から工業国に生まれ変わる時代であり、膨大な数の低賃金の非熟練労働力を必要としたからだ。
 「南北戦争直後の一八六五年に一万四〇〇〇トンであった鋼鉄生産量は、一八八〇年には一四万トンとなり、九〇年には四〇〇万トンを超えた。同年、工業生産額が農業生産額を上まわった。一九世紀初め、大西洋岸に集中した静かな農業国であったアメリカは、一九世紀末には巨大な工業国になっていたのである。一八九〇年の国勢調査の後、連邦政府は、アメリカのフロンティアは消滅したと発表した」(同一二二頁)。 日本に黒船が来航したのは、すでに欧州勢に主要なアジア諸国を植民地として抑えられていたため、欧州から最も離れた清を目指す途上にあったからだ。
 「産業革命を迎えた西ヨーロッパ各国は、大量生産された工業品の輸出拡大の必要性から、インドを中心に東南アジアと中国大陸の清への市場拡大に急いでいたが、後にそれは熾烈な植民地獲得競争となる。競争にはイギリス優勢のもとフランスなどが先んじており、インドや東南アジアに拠点を持たないアメリカ合衆国は、西欧との競争のためには、清を目指するうえで太平洋航路の確立が必要であった」(黒船来航、フリー百科事典『ウィキペディア』)
 このように世界が資本主義経済化する流れの中で移民は必要とされた。ブラジルにおいて大半はコーヒー園労働者(コロノ)として入れられたが、一九世紀末から二〇世紀初頭に米国にはいった移民の四分の三以上が都市に定着し、工場労働者となっていった。(つづく、深沢正雪記者)