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聖南西=衰退する地方団体の苦悩=山村会長・小川氏、積極参加求め行脚=連載(下)=古代遺跡のような野球場=「なんとか昔のように…」

ニッケイ新聞 2009年5月12日付け

 二日午後六時過ぎ、最後に渡辺キイチロウ会長はイタポランガ文協の会館裏を案内した。
 丘を削ってつくった観客席付き野球場二面などスポーツ施設があるが、「使っているのはゲートボール場だけ」と渡辺会長。夕焼けに映える立派な野球場が、どこか古代遺跡のように見えた。
 次の町、グアピアラにいく車中、「サンパウロ市まで三百六十二キロ」との表示がみえた。妙にみな、黙りこくっている。
 唐突に山村連盟会長が「十五年といえば、一世代まるごとだな」とポツリ。小川さんも「コチア崩壊とデカセギのダブルパンチ…。僕らはこういう現実をしっかり見ないといけない」と噛みしめるように言った。
  ☆    ☆
 午後七時五十分、海岸山脈の山道を一時間あまりもクネクネと行った先にあるグアピアラ農協クラブの会館に到着した。本日最後の目的地だ。
 角田稔会長(三世)からは「ぜったいに夕飯を食べないできてくれ」と山村連盟会長に電話があった通り、わざわざ婦人部がご馳走を用意して待っていた。若者らも含め約三十人で歓迎してくれ、一行は驚く。
 入植は一九三五年、会創立は四九年と古い。会館入り口には八五年に入植五十周年を祝って建立した立派な記念碑がたっている。
 ここも、かつてあったコチアの倉庫、今も続く南伯グアピアラ農協が経済活動の中心だった。八〇年代のトマト景気の頃は百五十家族も会員がいたという。今でも町全体では百家族は日系人がいると思われるが、会員は四十家族のみ。
 現在は演芸会もやらなくなり、野球部が消え、五年前には生徒減少で日本語学校もなくなった。角田会長は「なんとか昔のようにしたいが…」という。
 角田会長はとつとつと「運動会は一時辞めたが、また復活させた。やっぱり僕らが子供の頃に楽しかった思い出を、今の子供にも味あわせてやりたかった。景品なんか鉛筆でもいいから」と熱い想いを語る。
 この危機でデカセギから帰ってきている人たちに同会長は個別訪問して、会活動に参加するように呼びかけている。山村連盟会長も小川氏も疲れを忘れて、関心して取り組みに聞き入った。
 山村連盟会長は「ぜひ、他の日系団体との交流会を兼ねた婦人部の日帰り旅行をやりたい。お互いの会館を訪ねることで、地方同志の交流を活発化させよう」と提案した。「移民は地方から始まった。地方こそが大事」との持論を繰り返しのべた。
 行った先々で聞かされたのは、連盟活動に参加しない団体は、なにも連盟の方針に反対だから「参加しない」のではなく、活動自体が停滞・衰退しているから「参加できない」のだという厳しい現実だった。
 そんな中でも、最後の訪問先で行われている再興への試行錯誤に、一行は心強い印象を受け、心が救われる感じがした。
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 全員に見送られながら、午後九時二十分に会館を出発。十一時、出発点であるピニャールに戻り、山村連盟会長と運天エリザ会計理事は一路レジストロへ。小川氏と記者は別の車に乗りかえ、サンパウロ市へ。疲労困憊して自宅に戻ったら、なんと深夜二時だった。
 このような奥地行脚を手弁当で行う熱意こそが、日系社会を活性化させる最大の武器だと確信する。
 サンパウロ市内のどの日系団体にこのような熱意があるのだろうか。地方がこれからの日系社会の中心になるべきではないかという想いを強くした。(終わり、深沢正雪記者)
写真上=イタポランガ文協の渡辺会長
写真下=グアピアラ農協クラブのみなさん