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《寄稿》 心の琴線に触れる美談=山本勝造氏への報恩で寄付=パラグァイ 坂本邦雄

ニッケイ新聞 2014年1月11日

普段は義理人情に疎い筆者だが、この度、病の床から元戦後ブラジル移民の北島績さん(勿論全然存じ上げぬ)が複数の日系福祉団体へ一千万円をクリスマスのプレゼントとして寄付した奇特な記事を、サンパウロの12月21日付「ニッケイ新聞」で読み、深い感銘を受けた。

この殊勝なエピソードの主人公の北島さんは60年代にブラジルに移住し、サンパウロの山本勝造氏のサドキン電球工業(株)に入社し長年勤務した後、職を転々と変わっている中に眼疾患を得て困憊していた時、山本社長は元社員の北島さんに温かい手を差し伸べて社員寮に引き取り、医療費まで面倒を見たのであった。

その後、恐らくやむ無き事情でブラジル永住を諦め帰国したと筆者は解釈したい。北島さんは、最近は無念にも食道ガンを患い、神奈川県横浜市で入院生活を送る中で、頻りに昔大変世話になったサドキンの、既に今は故人の山本社長やサンパウロの日系社会の事が盛んに頭に浮かぶ様になった。

そして、病むガンも末期症状に至ったと自覚した北島さんは、知己の「ニッケイ新聞」の協力を得てサンパウロ日伯援護協会(援協)など日系福祉4団体に「最後のお勤め」と病床より〃力を振り絞って〃前述のXマスプレゼントの送金手続きを果たしたのである。

斯くして寄付金の贈呈を受けたのは「援協」「憩の園」「希望の家」「こどものその」の4団体で、この贈呈式(20日)の顛末を援協から北島さんに報告(Eメール)したが、返事はない。病床から「最後のお勤め」と北島さんが述べたのが言葉通りになったのでは…。

なお、援協の菊地義治会長は北島さんの希望に沿って、アラサー墓地の山本勝造と千代夫妻の墓に献花した序に草取りし掃除もして、北島さんの報恩の気持ちでこの度のXマスプレゼントの報告をして来たと云う。

これも山本勝造氏の人柄・遺徳を彷彿とさせるものだが、なんと心温まる話しではないか。

筋金入りの移民魂持つ山本氏との邂逅

ここで、なぜこの新聞記事が筆者の目を惹いたかと云えば、古い話になるが80年代前半に一度在パ日本商工会議所(当時、笠松尚一会頭)の会員がサンパウロ市のブラジル日本商工会議所(橘富士雄会頭)を、その頃はパラグァイでは安かったウイスキーを一同手土産にして親善・交流に訪問した事があった。

そもそもこの商工会議所は、1975年6月には日本からラプラタ大型経済使節団(永野重雄団長)が來パするが、「日本大使館では手薄で受け入れが大変なので早急に商工会議所を設立して協力を頼む」との、当時の種谷大使の要請が動機となったもの。地元の日系人の会社や進出企業、商社駐在員事務所などの代表者14、5人が急遽集まって出来た、いわば〃泥縄式結成団体〃であった。

そのような次第の我が商工会議所の訪伯メンバーは大いに歓待されたが、サンパウロの邦字紙には「一風変わった珍妙な構成訪問団」などと囃された。

長年勤めたJICA前身の海外移住事業団を辞めて、住友商事アスンシォン連絡員事務所を預かった筆者も同訪問団に加わって行った。訪問先のブラジル日本商工会議所の歓迎パーティーの席上、ブラジル住友商事会社(株)の顧問をされていると云う山本勝造氏がわざわざ筆者に近寄って挨拶され、お会いしたのが初めてで、後にも先にもこの時だけの機会となった。

そして、山本氏は贈呈署名入りの随想集『ブラジルと四十八年』を下さったが、残念ながら日付が書いてない。それに気が付いたのは、今当方より訪問団がサンパウロにお邪魔したのは何時だったかを改めて調べたかったからである。そんな記録も残していない筆者は随分ずぼら者でお恥ずかしい次第だ。

でも戴いた同著は山本氏のシリーズものの6冊目に当たり、発行は1980年6月1日となっているから、多分我々のサンパウロ市訪問は翌年の1981年の半ば頃だったのではないかと思う。

その時、山本氏が畑違いの商社マンの真似事を遣っている様な筆者に申された事は、「住商は堅過ぎる位に良い会社です。折角入られた会社です。しっかりガンバって下さい」、と云われたのが印象的であった。

それはさて置き、この山本勝造随想集を拝見すると、山本氏は1932年にサントス丸で23歳の時に御夫妻して渡伯されている。(筆者は奇しくも同年前後してモンテビデオ丸で3歳の頃ブラジルに渡り、始めはモジアナに入植した)。

最初の入植地キロンボで随分苦労され、その後は事業活動に移り数々の企業を起こされ、かつ幾多の社会貢献もされ、体が幾つあっても足りないほど多忙な人生を過ごされた。戴いた随想集を何度も読んだが、筋金入りの移民魂に滲み出る多々なる教訓を覚える。

ただ、山本氏は子宝に恵まれなかった。なお、多年苦楽を共にされた千代夫人に先立たれ、風呂上りに足の爪を切って貰えなくなったのを寂しく思うなど、人間山本のエピソードには事欠かない。

さればこそ、あたかもその人柄や人徳が今回の「北島美談」に惜しみなく反映されたのではなかろうか。