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松原植民地=56年目の追憶=連載《2》=戦後初の南伯移民=『頑張れッ』各地で歓迎

ニッケイ新聞 2009年1月17日付け

 南麻州日伯連合会創立二十五周年記念史「躍進への道」(一九八八年十二月発行)によると、松原植民地には、一九五三年七月のオランダ船ルイス号、八月のチチャレンガ号、九月のあめりか丸の三回で六十九家族が入植した。内訳は和歌山県人五十六家族、岡山県人五家族、広島県人三家族、栃木県人一家族、既にブラジルに移住していた四家族だった。
 第二次世界大戦で中断されていた日本人移住。南伯への戦後初の移民の様子が、当時の邦字紙に大きく報じられている。
 五三年七月九日付けパウリスタ新聞は「十二年ぶりの移民姿」の見出しで、最初に到着した二十二家族百十二人の容姿などを伝え、渡伯の動機も掲載。移民の大半は農地の現状を知らない人たちで、「三十町歩の土地無償提供と、ブラジルの生活は安易だ」との理由が大半の気持ちではないだろうか、と結んでいる。
 続く十一日付けには、マ州知事のフェルナンド・コレイア・ダ・コスタ氏により日本人移民歓迎の祝電が寄せられている。
 さらに十七日付けパウリスタ新聞では、通過する駅々で戦前移民が様々な差し入れをしている様子を報じ、「車窓から日の丸を振っている二台の移民列車(貨車も二台)が入って来る勇ましさは戦後初めての感激であった『頑張れッ』と見送る列車の後尾にお振袖が賑やかにブラ下って、ヒラヒラと手を振るごとに動いて行く風景もなかなか拾て難いものであった。。。」と写真入りで歓迎を伝えている。
 「躍進の道」によれば、当時、ドウラードス管内に日本人会組織は無かったが「新移民来る」の朗報に接した多くの人たちは、新移民歓迎と日本人同士の親睦を図るために結成。同時に青年会もでき、日本語教育やスポーツを盛んに行っていた。
 サントスに到着した入植者たちは、列車に乗り五日ほどかけてイタウン駅に到着。迎えに来ていたカミニョンに乗り、ドウラードス市の収容所へ向かっていった。
 昨年、入植して以来初めてイタウン駅を訪れたという南麻州日伯文化連合会会長の小野享右氏(75、岡山、ドウラードス市在住)は、駅の変貌ぶりに驚いたという。
 「着いた時は想像もつかないところへ入って行ったし、前に進むしかなかった。それから約五十五年たって、駅舎は草だらけで、線路は錆びついている。自分たちはこんなになっちゃいかんって思ったね」としみじみと話した。
 松原植民地も他の植民地と同じように、初年には数家族が脱耕し継続が危惧された。しかし、松原安太郎は私財を費やして同地の発展に尽くしてきた。(つづく、坂上貴信記者)

写真=松原植民地へ入植した人々が最初に到着したイタウン駅(南麻州日伯連合会提供)