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花嫁移民=海を渡った花嫁たちは=滝 友梨香=10

 出征間際でもあり、その頃は周囲の人たちもまたそれを当然のこととしたのだろう。そして父親なる男の出征後に私が生まれたというわけである。
 「農繁期に働ける者がおらん、男が出征して居ない家には、嬰児は大変手のかかる困った存在でしかなかったからね、仕方なく生まれてすぐ養女に出したのよ」と聞かされたのは十才の頃だったろうか。
 十代の時も成人式を迎えた頃も、私は自分の出生について、くどくど思い悩む事も無く、従ってそのいきさつを突っ込んで聞くこともなかった。実父方や母方の誰かが、ぽつんぽつんと何かの折に言うのを聞き、「そういう事でしたか」と痛みの無い他人事のような思いを抱くだけであった。それほど私は養父母に可愛がられて育ったのである。
 生後一ヶ月も経たない内に、嬰児の私は持参金をつけて、始めから詫びられているような「ごめん」という名の駅から室戸岬に近い町の養父母へ実子として貰われて行った。
 そのごめん駅で養母の手に渡され、養母の胸に抱かれた時、それまで眠っていた私は「泣いた」という。まさか己の運命の変わったことを本能的に知って泣いたとも思われないが、これが私の第一の旅発ちであった。この旅発ちを五十歳になってから出会った短歌にしたのが次の一首、

  目に見えぬ赤い靴履き生れし児が養母に抱かれしごめんとう名の駅

 振り返ると、私はアンデルセンの童話の少女のように、赤い靴に踊らされることになっていたのだろうか。眼に見えない赤い靴を履いて生まれて、「ごめん」というこの駅から踊らされ始めていたのだなあと思ったときに生まれた歌である。
 私が生まれたこの「ごめん」の町に、私の従兄、従姉妹は少なくないが、そのすべてを私は知らない、ことに実母の方は。養女に出されるときに実父方から出されたためと考えられるが、子供のころから実父方の祖父母の家を、たびたびたび訪ね父方の兄の従兄たちに親しんだため、母方のいとこ達の記憶は、母の兄の子だった美人の曜子さん一人しか残っていない。
 私の結婚相手となったのは実母の妹の息子だった。その従兄の彼は、私が仲良くした実父の兄の従兄達が住む家と隣り合わせの家に住んでいたそうで、何度かは出会ったことがあるはずだが、まるで覚えがない。 
 この叔母一家が移住する時に私は中学二年だったと思う。学校に実父から電話がかかり、
 「叔母さんがパラグアイという国へ移住するから、お別れに来なさい」と告げられ、何のことかよく理解できないまま、養父母の了解をもらって最後のお別れに行ったことを覚えている。どのような理由があって移住するのか関心を持たなかったし、したがって聞くこともなく別れて、この一家のことはそれきり思い出すこともなかった。

 中学を卒業後に大阪に出て働いていたころ、実母のもう一人の妹と名乗る婦人から電話があり、
 「私の死んだ姉の娘が大阪にいるとあなたのお祖父さんから、電話番号を渡されていたのに、忘れたままになっていたメモがいま出てきたので、京橋で乗り換え三つ目の駅だから遊びに来てください」と言った。
 これをきっかけに、それまで街ですれ違ってもお互いに分からなかった叔母と姪の交際が始まった。