ニッケイ新聞 2008年11月28日付け
ダーウィンといえば進化論だが、ダーウィンから五代目のランドル・ケインズ氏が、ゆかりの地を訪問中と二十七日付エスタード紙が報じた。
一八五八年七月一日の学説公式発表にちなんだ記事が、六月二十九日付フォーリャ紙にもあったが、ダーウィンの博物学者としての開眼や、進化論につながる多様な生態系との接触の場として、一八三二年のブラジル滞在が影響を与えたことは余り知られていないようだ。
エスタード紙記載のリオ州マリカーのイタオカイア農園も、動植物採取時のダーウィンが立寄った場所。農園主自身、ダーウィンゆかりの地と知り驚くと共に、農園内の品を売ってしまったことを後悔しているというが、科学技術省などは、ダーウィン訪問の一二市を観光、科学、文化の道として残したい考えだ。
一八三一年十二月に始まった海軍測量船ビーグル号の航海でリオに寄港したダーウィンが、内陸部への調査旅行も行なったとの記述はウィキペディアなどの資料にあるが、大西洋沿岸森林地帯原生林で多様な生態系に触れ、剥製を英国に送ったりしたダーウィンは、恩師からの手紙で博物学者として将来を期待されていると感じたという。
この時の航海で、南米沿岸の生態系変化の様子やガラパゴス諸島の生物と南米の種との類似性に気付いたことや、南米での大型哺乳類化石発見は自伝にも書かれている。南半球各地の動植物相の違いから、種が独立して作られ、それ以来不変とは考えられなくなったという経験は、自然淘汰や生存競争、適者生存という理論の基となった。
ダーウィンが原始の熱帯性植物相を初めて観察した地であるブラジルの自然は破壊され、大西洋沿岸森林地帯も原型を留めるのは七%。多様な生態系もサトウキビやコーヒー栽培に変わっている。一方、ブラジルでの奴隷虐待目撃が元で奴隷解放運動支援のダーウィンには、「奴隷解放令から一二〇年経った現在のブラジルは喜ばれる」というケインズ氏は自然保護主義者。ダーウィンが見たら喜びと悲しみとを味わう現在のブラジルでは、生態系保存への取組みも必要だ。
二十七日フォーリャ紙には、サンタカタリーナ州では森林伐採や法的規制無視の住居建設で被害拡大の声など、科学技術や知識を正しく利用できないことへの批判も。自然に学んで発見した科学や技術をどう使うかは人の手に委ねられている。