それから一年ほどしたある日、この叔母の家を訪ねると、パラグアイからウルグアイに再移住したというもう一人の叔母で、実母のすぐ下の妹一家の話が出て、「ああ、あの中学の時の南米へ行ったおばさんの一家か」と思い出したのだった。
十七歳の時、養母がおそらく六十歳くらいで逝き、二十一歳の時、養父が八十四歳で逝き、私はたった独りで生きていた。養父母は二十歳も歳の離れた夫婦であり、養母は後妻だった。死別した先妻の娘が三人いたが、後妻の養母とさして離れた年齢ではなかった。
財産は田と畑と家があった。大したものではなかったと思うが、その財産のためにたびたび揉めごとがあった。貰いっ子の私が少ない財産を独り占めすることは許されることでないにもかかわらず、養母が育てたわが子かわいさに、その生前に頑張り通し、財産は私のものに法的手続きがしてあっため、そのことに対しての揉めごとで、この揉め事は私が幼いころからたえず続き、言い争いばかりでなく暴力も出る争いに、私は泣き叫んでいたことを思い出す。
養家を思い出すとき、一番先に目に浮かぶのが後妻と先妻の娘の争い、養父と娘たち争い、夫婦喧嘩の風景であった。そして門とも言えない木戸、その脇に私が植えた除虫菊と鳳仙花、農家であるため納屋や馬小屋があり、母屋よりもこちらが大きく、無花果の木と野菜を植えた裏の畑などがつぎつぎ思い出される。畑には私が植えたコスモスが咲き、その畑の横に田んぼがあり、その上に墓地があった。
もう一つの大きい田んぼは一キロほど離れた河口に近い所に、たぶん三反ぐらいはあったと思うがはっきりは知らない。義理の姉達は四十代であり、この河口近くにある田んぼがいずれ港を作るために、価値あるものとなることを見越していたかも知れないのだが、まだ若かった私は何の未練も慾も無く、子供の頃からの財産騒動から逃れたい気持ちの方が強く白紙委任状を手渡して、十七歳の時に大阪に出て行った。
このとき養母は病床にあり、一時帰郷していた時に先妻の娘、私の義姉になる一人から、今度は私が喧嘩の対象にされ、気性の激しい下の義理姉から罵りを受け叩かれ、私自身の中に眠っていた激しさの塊が弾け永久に、この家に別れを告げようと大阪へ出て行ったのだった。
「何を食べさせても楽しみがない太らん子よ」と言われていた私は、中学を卒業してすぐに、養父の弟の娘の嫁ぎ先である大阪に出て、その旧家にお手伝いさんとして住み込み働いていたが、この頃でも私は痩せたひょろひょろの女の子だった。子供の頃から痩せていたので、いつも養母が「お線香、蟷螂、三日月、電信柱」と細いものならすべて私に例えていたぐらい痩せていた。働くために面接に行くと、「結核ではないですか?」とよく言われるほどだったが、実は健康でめったに風邪も引かない体だった。
病弱でないことが私をさらに気の強い人間にしたのか、おさない頃から家庭の争いを見て育ち、激しさを身の内に知らず知らず育てていたか、親の無い娘に対する周りの人達の目や仕打ちに反抗心が燃えてきたのか、とにかく私はキツイ性格になっていた。しかし、気侭にそのキツさを現せられるものではなく、耐えて働くしかない暗さが心に宿っていた。